牧野定成
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| 時代 | 江戸時代前期 |
| 生誕 | 元和3年(1617年) |
| 死没 | 万治元年10月7日(1658年11月2日) |
| 改名 | 直成、定成 |
| 戒名 | 一山 |
| 墓所 | 芝西応寺町の西応寺 |
| 官位 | 播磨守 |
| 幕府 | 江戸幕府 旗本 |
| 主君 | 徳川家光、家綱 |
| 藩 | 越後三根山領主 |
| 氏族 | 牧野氏 |
| 父母 | 牧野忠成 |
| 兄弟 | 光成、嶺秀院、花形院、康成、朝成、 定成、忠清、於吉 |
| 妻 | 内藤政次娘 |
| 子 | 大田原高清室、忠清、牧野忠成継室 |
牧野 定成(まきの さだなり)は、江戸時代前期の旗本寄合。播磨守。越後国三根山領主。子孫は後に大名となる。
略歴
牧野忠成の四男として誕生。初名は直成。
寛永9年(1632年)将軍徳川家光に初めて目見えを許された。時に16歳(満15歳)。
寛永11年(1634年)、父の領内より越後国蒲原郡の6000石を分知をされ旗本寄合席、三根山領主となる。その後、しばしば暇を乞い三根山に赴く。 男子に恵まれず、万治元年(1658年)の死に臨んで弟の忠清が養嗣子となり家督を継いだ。また、養女(花輪宗親の娘)を牧野忠成(越後長岡藩2代藩主)の継室としている。
萬治元年10月7日卒去、享年42。法名は一山。芝西応寺町(東京都港区芝2丁目)の西応寺に葬られ、以後代々の葬地となる。[1]
系譜
脚注
注釈
出典
- ^ 続群書類従完成会編『新訂 寛政重修諸家譜 第六』1984年、274頁
参考文献
- 続群書類従完成会編『新訂 寛政重修諸家譜 第六』1984年。
固有名詞の分類
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