牧野光成急死後の継嗣問題
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「越後長岡藩」の記事における「牧野光成急死後の継嗣問題」の解説
初代長岡藩主牧野忠成の嫡子、光成は、寛永14年(1637年)に父に先立って24歳で死亡した。このとき光成の遺児はまだ3歳であった。 牧野忠成の次男、牧野康成(注意=祖父と同じ名を名乗っていた)は、越後与板藩主として分家・立藩していた。また牧野忠成の四男、牧野定成は分家して、寄合となっていた。康成と定成は、光成の遺児が幼いことを奇貨として、忠成の後継者を争った。 初代長岡藩主牧野忠成が承応3年(1654年)死去すると当事者間では収めきれず、遂に明暦元年(1655年)、4代将軍徳川家綱の裁定を仰ぐことになった。その結果、光成の遺児が2代目の長岡藩主になることが決まった。光成の遺児は、はじめ忠盛と名乗っていたが、祖父と同じ忠成と改称した。2代目忠成(あるいは後忠成)と呼ばれた。 この騒動で、幕府からの長岡藩への処罰はなかった。また牧野家(本姓山本家)は、このとき幼い忠盛をよく助け、この騒動に勝ったことで、はじめ組頭・番頭級の格式であった同家は、のちに家老職へ取立てられた(牧野頼母家)。 この裁定の後、与板藩と、長岡藩に領地争い・境界紛争が勃発して、抜本的な解決を長く見ず、両藩の関係は悪化した。 徳川綱吉の側用人となった牧野成貞の病気見舞いで、長岡の牧野忠郷と、与板の牧野新三郎(康道の嫡子)が牧野成貞邸で出会ったが、このとき険悪な雰囲気が漂ったと云われ、牧野成貞等も心を砕き、天和2年7月7日(1682年8月9日)に和解した。やがて与板藩主牧野家は、小諸藩に転封となったので、この問題は自然消滅した。
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