牧野光成急死後の継嗣問題とは? わかりやすく解説

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牧野光成急死後の継嗣問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:25 UTC 版)

越後長岡藩」の記事における「牧野光成急死後の継嗣問題」の解説

初代長岡藩牧野忠成嫡子光成は、寛永14年1637年)に父に先立って24歳死亡した。このとき光成遺児はまだ3歳であった牧野忠成次男牧野康成注意祖父と同じ名を名乗っていた)は、越後与板藩主として分家立藩していた。また牧野忠成の四男、牧野定成分家して寄合となっていた。康成と定成は、光成遺児が幼いことを奇貨として、忠成の後継者争った初代長岡藩牧野忠成承応3年1654年死去する当事者間では収めきれず、遂に明暦元年1655年)、4代将軍徳川家綱裁定を仰ぐことになったその結果光成遺児2代目長岡藩主になることが決まった光成遺児は、はじめ忠盛名乗っていたが、祖父と同じ忠成と改称した2代目忠成(あるいは後忠成)と呼ばれた。 この騒動で、幕府からの長岡藩への処罰はなかった。また牧野家本姓山本家)は、このとき幼い忠盛をよく助け、この騒動勝ったことで、はじめ組頭・番頭級の格式であった同家は、のちに家老職取立てられた(牧野頼母家)。 この裁定の後、与板藩と、長岡藩領地争い境界紛争勃発して抜本的な解決長く見ず、両藩の関係は悪化した徳川綱吉側用人となった牧野成貞病気見舞いで、長岡牧野忠郷と、与板牧野新三郎(康道の嫡子)が牧野成貞邸で出会ったが、このとき険悪な雰囲気漂ったと云われ、牧野成貞等も心を砕き天和2年7月7日1682年8月9日)に和解した。やがて与板藩牧野家は、小諸藩転封となったので、この問題は自然消滅した

※この「牧野光成急死後の継嗣問題」の解説は、「越後長岡藩」の解説の一部です。
「牧野光成急死後の継嗣問題」を含む「越後長岡藩」の記事については、「越後長岡藩」の概要を参照ください。

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