本多忠勝家の時代
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慶長6年(1601年)1月1日、上総大多喜藩より家康譜代の重臣・本多忠勝が10万石で入ったことにより、桑名藩が立藩する。忠勝は徳川四天王の1人としてその武名を天下に轟かせた猛者であり、後代に武田信玄や織田信長らから賞賛されたという伝承が成立した武将で、桑名藩の歴代藩主の中で最も有名な人物である。忠勝は関ヶ原の戦いでは本戦に参加して武功を挙げるなど、武勇ばかりが際立って目立つが、藩政では「慶長の町割り」と呼ばれる大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行って、今日まで続く桑名市街の基礎となり、さらに東海道宿場の整備も行われて、実質的に桑名藩政を確立した名君でもあった。 慶長14年(1609年)、忠勝は隠居して嫡男・本多忠政が第2代藩主となる。大坂の陣では徳川方の先鋒として参戦し、大坂方の薄田兼相や毛利勝永らと激戦を繰り広げた。また大坂の陣後、家康の孫娘で豊臣秀頼の正室であった千姫と忠政嫡男の本多忠刻が婚姻したこともあり、元和3年(1617年)7月14日に忠政は先の武功により西国の押さえとして播磨姫路藩15万石に加増移封され、忠刻は千姫の脂粉料として10万石を(姫路新田藩)、忠刻の実弟・本多政朝が5万石をそれぞれ与えられて播磨に移封となった。
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