城下町の様子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 07:06 UTC 版)
陣屋の所在した与板は信濃川左岸に開け、西側は日本海との間の低い丘陵地となっている城下町として知られた。太平洋戦争で空襲を受けなかった事から、現在でも残る城下町特有の鍵型の道路や小路がそれを物語っている。現在の住所表記である「与板甲」(町内で言えば馬場丁・泉丁・長丁・下丁)は陣屋が所在することから主に武士の居住地域、「与板乙」(町内で言えば新町・仲町・上町・船戸・横町・蔵小路等)は主に商人・職人の居住地域として定められていた。特に新町・仲町・上町・横町に商店が集中し、何れも民家は間口が狭く屋根は妻入りで細長い(「うなぎの寝床」状態)様子であった。 城下町だけでなく信濃川水運の川港町としての役割が強く、町場は支流黒川沿いに立地しすぐに信濃川に合流することから、新潟・長岡方面以外にも大坂廻米等も扱う廻船問屋が多く生まれ賑いを見せた。享保年間は9名の船持、14艘の廻船を有していた記録があり、その後時代が下るに連れて廻船の数も増加し繁栄した。その為大坂屋三輪家、扇屋中川家の様に豪商として名を成し藩の御用商人となった者が傑出した。市場も『越後野志』に「与板新町ニテ、毎年六月二十五日ヨリ七月朔日迄市アリ、四方ノ商客輻輳ス、又馬モ売買ス」と記される様に賑っており、商圏も広く当時は長岡と同等の町場が開けていたようである。港町ということで付近の農村部の物資が集結し発展を続けた。
※この「城下町の様子」の解説は、「与板藩」の解説の一部です。
「城下町の様子」を含む「与板藩」の記事については、「与板藩」の概要を参照ください。
- 城下町の様子のページへのリンク