錦町 (仙台市)
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錦町(にしきちょう)は、宮城県仙台市青葉区の町丁。郵便番号は980-0012[2]。人口は3,061人、世帯数は1,795世帯(2022年10月1日現在)[1]。現行行政地名は錦町一丁目・錦町二丁目であり、全域で住居表示を実施している[4]。
- ^ a b c “町名別年齢(各歳)別住民基本台帳人口”. 仙台市. 2022年11月5日閲覧。
- ^ a b “宮城県 仙台市青葉区 錦町の郵便番号”. 日本郵政. 2022年11月5日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
- ^ 仙台市市民局戸籍住民課: “住居表示実施地区 町名一覧表(区毎・五十音順)”. 仙台市. 2022年11月5日閲覧。
- ^ a b 仙台市道青葉1139・同心町通線
- ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
- ^ a b 仙台市道青葉1141号・定禅寺通宮町線
- ^ a b 仙台市道青葉1132号・新小路線
- ^ 仙台市道青葉1142号・新名掛丁線
- ^ その他、長丁の中ほどで直交する光禅寺通を南下して茂市ヶ坂で崖を下るか、長丁東端近くの新名懸丁を南下して掃部丁(かもんちょう)で崖を下るかして元寺小路に出る方法もあった。のちに元寺小路に下りる道は他にもいくつかできた。
- ^ a b 定禅寺跡地付近を開削して造られたこの新道の町名は、西側が東三番丁、東側が外記丁となった。
- ^ 仙台の城下町では侍町は「丁」(ちょう)、町人町は「町」(まち)と表記・呼称したが、侍町から商店街化した長丁の錦町への町名変更は、同様に侍町から商店街化した東一番丁が一番町に町名変更するより先んじたことになる。なお、侍町から商店街・オフィス街化しても「丁」から「町」に町名変更せずにいるのは、名掛丁を初めとして多数ある。特殊例として、国分町は表記に変更は無いが、「こくぶんまち」から「こくぶんちょう」に読みが変化した。
- ^ 歴史的町名復活検討委員会報告 資料(仙台市「歴史的町名復活検討委員会」)
- ^ 仙台市道青葉739号・北一番丁2号線
- ^ 仙台市道青葉1153号・愛宕上杉通1号線
- ^ a b 中央(昭45)(仙台市「仙台市の住居表示実施状況」 2.実施地区名一覧《実施年降順》)
- ^ 仙台外記丁団地(独立行政法人 都市再生機構)
- ^ みやぎ婦人会館
- 1 錦町 (仙台市)とは
- 2 錦町 (仙台市)の概要
- 3 概要
- 4 主な施設
長丁(旧町名)
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藩政期には「長丁」(ながちょう)と呼ばれ、西端を同心町通、東端を東六番丁通とする道路名として用いられた。また、町名としては、東六番丁の西側を東六番丁と並走する新小路あるいは新名懸丁より西側の沿道のみで用いられたようである。仙台城下町では、侍町は「丁」(ちょう)、町人町は「町」(まち)と表記・呼称したため、長丁は侍町として武士が住んだ(参照)。 長丁は仙台上町段丘面にあり、それより一段低い仙台中町段丘面に城下町の中心地(奥州街道筋の国分町・南町と大町筋とが交差する芭蕉の辻など)が広がっている。両段丘面の間には、南西方向に凸の弧状をした標高差のある段丘崖が概ね現在の勾当台地区から宮城野橋(X橋)付近まで続いており、崖下には東三番丁通と元寺小路が、崖上には寺社地が、寺社地の裏手には外記丁と花京院通が、その弧状地形に沿って3つの帯状地帯として連なっていた。長丁から崖下の城下町へ行くには、長丁西端で直交する同心町通を北上して北一番丁通に出て、外記丁や定禅寺などの北側を迂回するか、あるいは、同心町通を南下して大仏前(おぼとけまえ)で崖を下り、大仏前と東三番丁と元寺小路がつくる変則五叉路に出る必要があった。 奥羽越列藩同盟の盟主だった仙台藩は、戊辰戦争の敗北によって大幅な減封処分を受け(参照1・参照2)、1871年(明治4年)の廃藩置県により消滅してしまう。すると勾当台地区では、藩の財政的裏付けがなくなった藩校の養賢堂が仙台県庁(のちに宮城県庁)に転用され(参照)、1873年(明治6年)には旧養賢堂敷地内に宮城師範学校も設置された(その後、外記丁との間で数度移転)。また、藩消滅と廃仏毀釈から廃寺となった定禅寺の跡地も1877年(明治10年)に仙台鎮台病院(→仙台衛戍病院→仙台陸軍病院と改称)になり、1881年(明治14年)には旧養賢堂敷地内に宮城書籍館、1885年(明治18年)には勾当台通を挟んだ旧養賢堂敷地内に仙台区の区役所庁舎(のちの仙台市役所)も設置された。 明治中期になると、旧定禅寺付近の段丘崖が開削され、崖下の定禅寺通東端と崖上の長丁の西端とを結ぶ道路が新設された。これで公的施設が集積する勾当台地区との連絡が良くなった長丁は、かつての侍町から商店街へと変貌した(1894年(明治27年)に遊廓が常盤丁から小田原に移転したため、長丁および北一番丁は、勾当台地区と遊郭とを結ぶ道ともなった。国分町 (仙台市)#歴史参照)。
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