長七郎のモデルとは? わかりやすく解説

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長七郎のモデル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 14:21 UTC 版)

松平長七郎」の記事における「長七郎のモデル」の解説

上記が、伝えられている長七郎生涯である。が、1661年48歳没したという設定では単純計算でも長七郎慶長19年1614年生まれとなり、これでは忠長9歳のときの子供になってしまう。父忠長が、慶長11年1606年)に生まれているためである。 鷹司松平家の祖となった実際松平信平は、関白鷹司信房息子である。信平は徳川家光正室孝子の弟であり、江戸下向して松平姓賜り7000石を与えられ旗本になった。また信平の正室紀伊徳川頼宣の娘・松姫であったとから、長七郎紀伊徳川家とが物語の中で結びつけられたのではないだろうか。さらにその孫の信清は3000石を加増されて吉井藩立藩1万石の大名になったこのように公家中でも最高位五摂家出身という超貴種血筋から武家への転身果たし、さらに子孫大名となったのは、徳川時代には鷹司松平家のみという極めて特殊な経歴から、信平は実は徳川将軍家血筋人物であったという風説生み出された。 そしてその結果、しばしば松平長七郎鷹司松平家当主経歴混同され、この松平信平を長七郎本人あるいはその子としたり、その孫・松平信清を長七郎の子や孫とする説が生まれたが、現在では誤りとされている。また、忠長従兄弟にあたる松平忠直改易後配流先で産ませた永見長頼とも混同され永見長頼を長七郎とする説も出たが、これも誤りとされている。徳川忠長は妻を娶っていたが、子はいなかったというのが、現在では史実とされている。 長崎市田上寺には長七郎の墓と伝えられる墓石があり、延宝4年12月25日1677年1月28日)に56歳逝去したと刻まれているが、実際に後年建てられた物であるという。 ちなみに、「南紀徳川史・第5冊」によると、高崎藩になった経験のある松平信吉実弟松平忠頼慶長14年死去)の三男伊勢桑名藩松平定勝養子になり、さらに紀州藩になった松平忠勝通称を長七郎称しているために同姓通称だが、全く関係はない。 忠勝は後に暇をもらって山城国閑居し寛文4年1664年)に死去している。忠勝の家から徳川家茂生母である実成院出ている。

※この「長七郎のモデル」の解説は、「松平長七郎」の解説の一部です。
「長七郎のモデル」を含む「松平長七郎」の記事については、「松平長七郎」の概要を参照ください。

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