赤穂藩の改易で領民が大喜びして餅をついたとは? わかりやすく解説

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赤穂藩の改易で領民が大喜びして餅をついた

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)

赤穂事件」の記事における「赤穂藩の改易で領民が大喜びして餅をついた」の解説

浅野起こした事件によって赤穂藩改易となり、それを聞いた領民大喜びして餅をついたという話がある。この話の初出文化3年1806年)に刊行され伴蒿蹊の『閑田次筆』とみられている。そして『閑田次筆』に書かれている領民喜んだという記述については以下の通りである。 「或人曰く赤穂政務大野氏上席にして、よろづはからひしほどに、民その聚斂にたへず、しかる間、事おこりて城を除せらるるに及びしかば、民大い喜び、餅などつきて賑はひし大石氏出て来て事をはかり、近時不時に借りとられし金銀など、皆それぞれに返弁せられしかば、大い驚きて、この城中にかやうのはからひする人もありしやと、面(おもて)をあらためしとかや云々…」 「ある人が言ってます。赤穂政治大野九郎兵衛上席全て仕切ったので、赤穂庶民は税のとりたてに耐えなかったといいますそうこうしている間に刃傷事件がおきて、城を没収されるにことになったので、赤穂庶民大い喜んで餅などをついて大賑いをしました。そこへ大石内蔵助出てきて政務を行うようになり、困った時に赤穂藩借りていた金銀を皆に返済したので赤穂の人は、大変驚いて赤穂藩このような立派なことをする人もいたのか、と考え改めたということです」 ただ、この『閑田次筆』は、浅野殿中刃傷起こした元禄14年1701年)からおよそ100年後の文化3年1806年)に刊行されたものであること。そして、本文中に「ある人曰く」とあるように、領民大喜びしたという話の出どころ誰が言ったのか、まったく不明であるなど、史料的に信憑性欠け要素複数見られるため、『閑田次筆』に見られるこれらの話は、俗説の域を出ないものとされている。 また、浅野切腹した後の当時赤穂城とその城下町の様子伝えるものとしては、赤穂城受け取り正使務めた脇坂安照家臣で、赤穂城受け取り在番実質的指揮をとった龍野藩家老脇坂民部日記赤穂城在番日記』が現存している。この『赤穂城在番日記』には、当時赤穂城受け取りから脇坂民部らの在番が終わるまでの仔細書かれている日記には城の受け取り終わり脇坂民部らが在番となってから、赤穂の子供が赤穂城の堀で釣り行っていることなどは書かれているが、赤穂領民改易となって喜んでいる様子などは書かれておらず、そうした様子当時赤穂見られなかったことがわかっている。

※この「赤穂藩の改易で領民が大喜びして餅をついた」の解説は、「赤穂事件」の解説の一部です。
「赤穂藩の改易で領民が大喜びして餅をついた」を含む「赤穂事件」の記事については、「赤穂事件」の概要を参照ください。

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