赤穂藩抜擢と追放とは? わかりやすく解説

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赤穂藩抜擢と追放

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 01:30 UTC 版)

鞍懸寅二郎」の記事における「赤穂藩抜擢と追放」の解説

天保5年1834年4月2日(旧暦)赤穂藩下級藩士鞍掛素助の次男として生まれる。母は大国氏の女美喜。天保10年に父素助が死去するも、嘉永元年1848年)、15歳の折に藩主森家縁故があった小林家継ぎ小林寅哉を称した。その年、藩主森忠徳世子森忠弘の侍続、茶道役として広間詰め側近として抜擢され江戸で塩谷宕陰師事した折しも赤穂藩では天保の大飢饉から続く天災により財政窮乏しており、森主税家出身の家老可真、次いで采女家出身の三勝緊縮政策行ったことごとく失敗森家当主も9代藩主・忠貫が夭折したため、急遽弟の忠徳が継いだものの、当初から家老たちに実権奪われていたために政治関心持てずにいた。これがため、忠弘の元で財政改革推す動きがあった。忠弘は安政4年1858年)、18歳若さ夭折したが、その遺命により同年12月24歳勘定奉行任命された。 だが、下級藩士出身の寅二郎抜擢は可真の子・森可彜や藩の領袖村上真輔上級藩士らの反発招き、彼らは江戸藩邸にいる忠徳に強硬な談判仕掛けた。寅二郎改革第一歩として側妾の解雇要求するなど、忠徳自身綱紀粛正訴えていたために、忠徳は改革中止決断改革派家老可則は失脚し、寅二郎責任一身に受ける形で藩を追放された。 赤穂藩追放された寅二郎は、最初大坂藤沢東畡の門を叩いたが、村上による寅二郎への讒言重んじた東畡はこれを固辞江戸戻り、再び宕陰門人となる。その後津山藩士・河井左衛門紹介領内香々美大庄屋中島氏援助を受け、私塾「休嫌学舎」を開校した当時津山藩では経費捻出策として富くじ発行していたが、寅二郎は『富籤論』を上梓してこれを批判。これが功を奏し文久2年1862年)、津山藩お抱え儒者として召し抱えられた。その間、名を松枝五郎次いで鞍懸寅二郎へと改名している。併せてこの年国事周旋掛(他藩応対係)を任じられ京に赴き、諸国志士たちと接した一方、寅二郎が藩を追放された後の赤穂藩は再び主税一派実権握ったが、藩を二分した党争によって財政益々窮乏した文久3年党争はいよいよ憤激した西川升吉ら急進派10数名によって可彜、村上両氏暗殺される事態発展した西川襲撃者脱藩し土佐藩に匿われた。党勢急進派傾き復権した可則は事件不問として村上一族追放一族誅殺恐れ抱いた村上真輔次子河原駱之輔は藩大目付訴えた拒絶され悲嘆の内に切腹した。これにより、村上一族ら旧保守派復讐のために動き出すこととなった。 この事態に可則は、寅二郎調停依頼。寅二郎土佐藩説得し襲撃者帰還認めさせた。帰国した襲撃者入牢したがほどなく解放され長州藩渡って倒幕活動身を投じた。彼らは赤穂藩勤王派に属させよう活動した藩論傾かず、西川は再び暗殺計画したのか仲間同士討ち起こし誅殺された。一方村上一派復讐の手緩めことはなく、その標的は寅二郎姉婿にして、最初の可彜、村上両氏暗殺の際に穏健な立場終始したためにどっちつかず立場にいた野上鹿之助向かい慶応3年にこれを襲撃し殺害した村上一派復讐明治4年1871年)の、「高野の仇討ち」まで続く。

※この「赤穂藩抜擢と追放」の解説は、「鞍懸寅二郎」の解説の一部です。
「赤穂藩抜擢と追放」を含む「鞍懸寅二郎」の記事については、「鞍懸寅二郎」の概要を参照ください。

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