赤穂藩抜擢と追放
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天保5年(1834年)4月2日(旧暦)、赤穂藩下級藩士、鞍掛素助の次男として生まれる。母は大国氏の女美喜。天保10年に父素助が死去するも、嘉永元年(1848年)、15歳の折に藩主森家と縁故があった小林家を継ぎ、小林寅哉を称した。その年、藩主森忠徳の世子森忠弘の侍続、茶道役として広間詰めの側近として抜擢され、江戸で塩谷宕陰に師事した。 折しも赤穂藩では天保の大飢饉から続く天災により財政が窮乏しており、森主税家出身の家老・森可真、次いで森采女家出身の森三勝が緊縮政策を行ったがことごとく失敗。森家当主も9代藩主・忠貫が夭折したため、急遽弟の忠徳が継いだものの、当初から家老たちに実権を奪われていたために政治に関心を持てずにいた。これがため、忠弘の元で財政改革を推す動きがあった。忠弘は安政4年(1858年)、18歳の若さで夭折したが、その遺命により同年12月、24歳で勘定奉行に任命された。 だが、下級藩士出身の寅二郎の抜擢は可真の子・森可彜や藩の領袖・村上真輔ら上級藩士らの反発を招き、彼らは江戸藩邸にいる忠徳に強硬な談判を仕掛けた。寅二郎が改革の第一歩として側妾の解雇を要求するなど、忠徳自身の綱紀粛正を訴えていたために、忠徳は改革の中止を決断。改革派の家老・森可則は失脚し、寅二郎は責任を一身に受ける形で藩を追放された。 赤穂藩を追放された寅二郎は、最初大坂で藤沢東畡の門を叩いたが、村上による寅二郎への讒言を重んじた東畡はこれを固辞。江戸に戻り、再び宕陰の門人となる。その後、津山藩士・河井達左衛門の紹介で領内香々美村の大庄屋、中島氏の援助を受け、私塾「休嫌学舎」を開校した。当時津山藩では経費捻出策として富くじを発行していたが、寅二郎は『富籤論』を上梓してこれを批判。これが功を奏し、文久2年(1862年)、津山藩お抱えの儒者として召し抱えられた。その間、名を松枝寅五郎、次いで鞍懸寅二郎へと改名している。併せてこの年、国事周旋掛(他藩応対係)を任じられ京に赴き、諸国の志士たちと接した。 一方、寅二郎が藩を追放された後の赤穂藩は再び主税一派が実権を握ったが、藩を二分した党争によって財政は益々窮乏した。文久3年、党争はいよいよ憤激した西川升吉ら急進派10数名によって可彜、村上両氏が暗殺される事態に発展した。西川ら襲撃者は脱藩し、土佐藩に匿われた。党勢は急進派に傾き、復権した可則は事件を不問として村上一族を追放。一族誅殺の恐れを抱いた村上真輔の次子・河原駱之輔は藩大目付に訴えたが拒絶され、悲嘆の内に切腹した。これにより、村上一族ら旧保守派は復讐のために動き出すこととなった。 この事態に可則は、寅二郎に調停を依頼。寅二郎は土佐藩を説得し、襲撃者の帰還を認めさせた。帰国した襲撃者は入牢したがほどなく解放され、長州藩に渡って倒幕活動に身を投じた。彼らは赤穂藩を勤王派に属させようと活動したが藩論傾かず、西川は再び暗殺を計画したのか仲間と同士討ちを起こし誅殺された。一方の村上一派も復讐の手を緩めることはなく、その標的は寅二郎の姉婿にして、最初の可彜、村上両氏の暗殺の際に穏健な立場に終始したためにどっちつかずの立場にいた野上鹿之助に向かい、慶応3年にこれを襲撃し殺害した。 村上一派の復讐は明治4年(1871年)の、「高野の仇討ち」まで続く。
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