高野の仇討ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 23:35 UTC 版)
自刃前、翠城は遺された兄弟に、「前事之覆、後事之戒」(この度の一件を後事の戒めとせよ)、親族に「雪冤在天」(冤罪を雪ぐためには天命を待て)という絶筆を遺している。この意を受けた村上一族は、播磨新宮藩に養子に出ていた三男・池田農夫也や四女・友の嫁ぎ先であった岡山藩の江見陽之進の元で復讐のために動き出すことになった。 この事態に狼狽した赤穂藩は、津山藩に藩儒として召し抱えられ、同藩の周旋役として京都で活動していた鞍懸寅二郎の仲介で西川ら13人を赤穂藩に帰国させ、可彜、真輔、翠城一家の版籍を回復することで事件を幕引きしようとした。だが、1963年の八月十八日の政変によって勤王派が一転して逆風に立たされると、西川らは再び脱藩。その後、西川は同士討ちにより殺されるなど、6人にまで数を減らしていた。なお、西川が同士討ちを起こし殺害されたのは奇しくも翠城が自刃した福泉寺だった。 村上一族は明治4年(1871年)1月12日、赤穂藩から、すでに死去していた長子・直内に村上家の家督相続を許す裁可が下り、同時に、「全く一時の相違いも無之、以て雪冤の儀に処せられ候」と真輔が無罪であるという声明を獲得した。そして6人を、高野山にある藩祖の廟所警護役に任じた。村上一族は6人を追跡し、同年2月30日、高野街道上にてこれらを殺害した(高野の仇討ち)。 河原翠城の墓は竜安寺(赤穂市加里屋)にあったが、後に福泉寺に移された。
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