仇討ちと追贈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 08:07 UTC 版)
可彜、真輔暗殺によって復権した可則は、斬奸状を執筆した山下恵助に忠典の名の元に感状を出すなど、事件の正当化を図った。可彜の遺族は閉門となり、村上一族は追放処分となった。一族誅殺の危険を感じた河原駱之輔は藩大目付に訴えるも拒絶され、悲嘆のうちに自害した。これにより、村上一族は復讐のために動き出すこととなった。 この事態に狼狽した赤穂藩は、津山藩に藩儒として召し抱えられ、同藩の周旋役として京都で活動していた鞍懸寅二郎の仲介で西川ら13人を赤穂藩に帰国させ、可彜、真輔、駱之輔一家の版籍を回復することで事件を幕引きしようとした。だが、1963年の八月十八日の政変によって勤王派が一転して逆風に立たされると、西川らは再び脱藩。その後、西川は同士討ちにより殺されるなど、6人にまで数を減らしていた。 村上一族は明治4年(1871年)1月12日、赤穂藩から、すでに死去していた長子・直内に村上家の家督相続を許す裁可が下り、同時に、「全く一時の相違いも無之、以て雪冤の儀に処せられ候」と真輔が無罪であるという声明を獲得した。そして6人を、高野山にある藩祖の廟所警護役に任じた。村上一族は6人を追跡し、同年2月30日、高野街道上にてこれらを殺害した(高野の仇討ち)。 村上真輔は1919年(大正8年)、正五位を追贈された。墓は赤穂市山手町にある村上家墓所にある。
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