仇討ち事件までの経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 06:17 UTC 版)
「荒木又右衛門」の記事における「仇討ち事件までの経歴」の解説
慶長4年(3年説もある)、服部平左衛門の次男として伊賀服部郷荒木村で誕生。幼名を丑之助、あるいは巳之助ともいうが、これらは俗伝であり、正しい幼名は不明。 父・平左衛門は、藤堂高虎に仕えたが、淡路で浪人した後、備前岡山藩の池田忠雄に召し抱えられた。平左衛門には渡辺数馬(内蔵助)という同僚がいた。この内蔵助の子に、みの(女)、数馬(二代目)、源太夫があり、のちに又右衛門はみのを嫁に迎え、二代目数馬らとは義兄弟の縁となる。 又右衛門は、兄・弥五助が池田家に仕えたこともあり、12歳のときに本多政朝の家臣・服部平兵衛の養子となった。しかし、元和8年(1622年)、本多家が姫路城主となったあと、28歳ごろに養家を離れて浪人し、生まれ故郷の伊賀に帰っている。故郷でははじめ菊山姓、のちに荒木姓を名乗った。また、剣術を学び、父からは中条流、叔父の山田幸兵衛から神道流を学んだといわれている。一方、15歳のころ柳生宗矩や柳生三厳の門人となり柳生新陰流を学んだとする説が『柳荒美談』などにあるが『日本十大仇討録』の考察などにも見られる様に、既に何か一流を極めた後に柳生の門に入り新陰流を学んだとする説もある。その後、大和郡山藩松平忠明に召し抱えられ、剣術指南役(剣術師範)250石に取り立てられた。
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