仇池攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 19:05 UTC 版)
322年2月、劉曜は親征して仇池の楊難敵を攻撃した。楊難敵は兵を率いて迎え撃ったが、劉曜軍の前鋒がこれを蹴散らした。楊難敵は仇池に撤退し、仇池の諸氐・羌は劉曜に降伏した。劉曜はそのまま西に軍を進め、かつて晋王司馬保に仕えていた南安の楊韜に攻撃を掛けようとした。楊韜は恐れて隴西郡太守梁勲と共に前趙に降った。劉曜は二人を列侯に封じ、侍中喬豫に5000の兵を与え、隴西の1万戸余りを長安に移した。劉曜はさらに仇池へ進撃したが、前趙軍で疫病が流行った。劉曜も病にかかったため、やむなく撤兵した。劉曜は楊難敵に背後を突かれることを恐れ、尚書郎・光国中郎将王獷を派遣して楊難敵に帰順を誘った。楊難敵は使者を派遣して前趙の藩臣になることを約束した。劉曜は楊難敵を使持節・仮黄鉞・侍中・都督益寧南秦涼梁巴六州隴上西域諸軍事・上大将軍・益寧南秦三州牧・領護南氐校尉・寧羌中郎将に任じ、武都王に封じた。また、子弟で公侯や列将、二千石(郡太守と同等の地位)とされた者は、15人を数えた。
※この「仇池攻撃」の解説は、「劉曜」の解説の一部です。
「仇池攻撃」を含む「劉曜」の記事については、「劉曜」の概要を参照ください。
- 仇池攻撃のページへのリンク