赤穂藩の事例とは? わかりやすく解説

赤穂藩の事例(改易後の混乱処理)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 21:43 UTC 版)

藩札」の記事における「赤穂藩の事例(改易後混乱処理)」の解説

播磨国赤穂藩藩札延宝8年1680年)に初め発行されたが、基本的に領内通用藩札のみに限り正貨流通禁じていた(実際に他領にも流れた)。赤穂藩改易で、城明け渡し藩士解散断絶する前に藩札正貨交換しようと、商人らが殺到する騒動になった改易時点で、藩札残額九百貫(約2万両、元禄改鋳により銀相場上昇)あり、家老大石良雄藩札六分替え額面の6割交換)という、取り潰される藩のものとしては、非常に高い率の銀正貨回収し城下混乱抑えた広島藩の「浅野文書」では赤穂藩藩札回収広島本家三好藩からの多額援助記され、「広島藩覚書帳」では赤穂藩断絶後鴻池家からの借財桁違い増加している。延宝8年赤穂藩藩札広島藩残っており、浅野本家からの援助があった裏付けとなっている(五匁一匁三分二分銀札があり、額面上部大黒天と銀分銅絵柄確認できる商人でなく大名家の手元にある(債務でない)ため、明治政府回収されていない)。 一方岡山藩記録では赤穂の「高都三千貫目程之由」と三倍以上有ったと書かれ、赤穂藩を持つ備前商人が「四分六分」の換金率額面の4割交換)だと言われ赤穂城下で喧嘩同然騒ぎとなり、換金してもらえなかった為に仕方なく池田家肩代わりしたと記される浅野氏の後に赤穂に入封した永井氏森氏もまた藩札発行した永井氏3年余りとごく短期間統治のためもあり、現存確認されていない森氏長期わたって発行されたため、多様な残っている。森家赤穂藩2万石)は浅野家より狭小であり、領地が山に囲まれ地形のため、領外との取引を行う商人などを除き領内での藩札専一流通確実に行われていたことは多く史料によって確認されている。名目上藩札専一流通規定した藩は数多いが、赤穂藩ほど徹底していた例は稀である。

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