赤穂藩の事例(改易後の混乱処理)
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「藩札」の記事における「赤穂藩の事例(改易後の混乱処理)」の解説
播磨国赤穂藩の藩札は延宝8年(1680年)に初めて発行されたが、基本的には領内の通用を藩札のみに限り、正貨の流通を禁じていた(実際には他領にも流れた)。赤穂藩の改易で、城明け渡しや藩士の解散で断絶する前に藩札を正貨に交換しようと、商人らが殺到する騒動になった。改易の時点で、藩札の残額が九百貫(約2万両、元禄改鋳により銀相場上昇)あり、家老の大石良雄は藩札を六分替え(額面の6割交換)という、取り潰される藩のものとしては、非常に高い率の銀正貨で回収し、城下の混乱を抑えた。 広島藩の「浅野家文書」では赤穂藩の藩札回収に広島本家と三好藩からの多額の援助が記され、「広島藩御覚書帳」では赤穂藩の断絶後に鴻池家からの借財が桁違いに増加している。延宝8年の赤穂藩藩札が広島藩に残っており、浅野本家からの援助があった裏付けとなっている(五匁札・一匁札・三分札・二分札の銀札があり、額面上部に大黒天と銀分銅の絵柄が確認できる。商人でなく大名家の手元にある(債務でない)ため、明治政府に回収されていない)。 一方、岡山藩の記録では赤穂の「札之高都合三千貫目程之由」と三倍以上有ったと書かれ、赤穂藩札を持つ備前商人が「四分六分」の換金率(額面の4割交換)だと言われて赤穂城下で喧嘩同然の騒ぎとなり、換金してもらえなかった為に、仕方なく池田家で肩代わりしたと記される。 浅野氏の後に赤穂に入封した永井氏、森氏もまた藩札を発行した。永井氏の札は3年余りとごく短期間の統治のためもあり、現存札は確認されていない。森氏の札は長期にわたって発行されたため、多様な札が残っている。森家赤穂藩(2万石)は浅野家より狭小であり、領地が山に囲まれた地形のため、領外との取引を行う商人などを除き、領内での藩札の専一流通が確実に行われていたことは多くの史料によって確認されている。名目上、藩札の専一流通を規定した藩は数多いが、赤穂藩ほど徹底していた例は稀である。
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