柳沢氏時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:37 UTC 版)
享保9年(1724年)に柳沢吉里が甲斐甲府藩から15万石で移封され、城下町の整備に努めた。この頃の城下町の様子が『郡山町鑑』にみえる。 享保9年頃の郡山城下町の様子家数:3656軒人口:13258人町数持ち家:1465軒 借家:2191軒 男:6562人 女:6696人 40 柳沢氏が入封して以降、郡山城は安定した時期を迎えていたが、天明7年(1787年)に大飢饉が発生、城下町の民家を群衆が打ち壊し、米穀を奪い取る騒ぎが起こる。安政5年(1858年)12月1日、郡山城二ノ丸付近から出火し、住居関係の建物群は全て焼失する大火にみまわれた。文久元年(1861年)に再建に着手するが、明治維新を迎え、明治3年(1870年)に藩は今後城の修理を行わないことを出願し、これが明治新政府に聴許された。のち明治6年(1873年)郡山城は破却された。この際に櫓・門・塀などの建築物は入札によって売却され運び去られたものの、石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めている。城下の永慶寺に城門が山門として移築され、現存している。
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