江戸開府前の人口
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 14:05 UTC 版)
江戸城は康正2年(1456年)から康正3年(1457年)にかけて太田道灌によって建てられた。江戸城の常備兵力の詳細は不明だが、太田道灌は2000〜3000騎の武士を従えていたと伝えられている(『梅花無尽蔵』)。また日比谷入江を挟んで江戸城の対岸に位置する江戸前島は、現在の日本橋から新橋にかけて南北に長い半島を形成しており、円覚寺の寺社門前領として保護を受けていた。当時の城下町としての江戸は、日比谷入江に注ぎ込む平川(現神田川)の両側(江戸前島の西岸)に発達し、また江戸湊の中心は江戸前島の東岸に発達したと考えられている。 扇谷上杉氏が後北条氏に敗れると、江戸城は荒廃するが、その後も円覚寺領の江戸前島は江戸湊として栄えていたことが、後北条氏や円覚寺の古文書や遺構の発掘などから近年明らかにされている。天正18年(1590年)の小田原征伐の際、江戸城は徳川家康軍に占領される。しばらくして家康が関東地方に封ぜられることになると、家康本人が8000人の兵を連れて江戸城に再び入城した。家康入城当時の江戸は、江戸城大手門から東にかけて茅葺きの町屋が100軒あるかないかと伝えられ(『聞見集』)、城下町を割り付ける場所は10町(約0.1 km2)ほどもあるかなしかの狭さだったという(『岩淵夜話別集』)。『天正日記』によると家康は入城前に江戸の様子を調べさせ、12町(約1.3 km) ×3〜4町(約0.33〜0.44 km)程度の広さに民家が点々と散在し、多くが戦火で消失している状態であり、天正18年(1590年)の段階で家康が江戸町割を計画したことになっているが、天正日記自体今日では家康の業績を強調するための偽書と考えられている。一方で家康入城前後から寛永中頃(1630年頃)までの江戸前島の様子については記録がほとんど残されていないが、これは家康による江戸前島横領を隠すためと考えられている。即ち翌年天正19年(1591年)、家康は豊臣秀吉によって安堵されていた円覚寺領の江戸前島を強制接収し、江戸城本城の拡張とともに城下町の建設を進めたと推測されており、江戸の町屋地区は江戸湊から発達したとみられる。家康の江戸入り当時、平川地区(現皇居周辺)、神田地区、麹町地区からなる現千代田区内には65寺、江戸前島のある現中央区内には15寺あったが、文禄末(1596年)までにそれぞれ35寺、14寺が新たに起立・転入しており、寛永9年(1632年)までに起立・転入した寺数は合計254寺に及ぶ。慶長5年(1600年)頃の江戸には家康の家臣団を中心に少なくとも約1万戸6万人が暮らしていたと見られる。家康が慶長5年の関ヶ原の戦いに勝利した直後の江戸城の様子を伝える地図として、慶長7年(1602年)のものと推定されている『別本慶長江戸図』が存在するが、城下町の様子は描かれていない。
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