江戸遊学
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武術で小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。出立に際して龍馬は父・八平から『修業中心得大意』を授けられ、溝淵広之丞とともに土佐を出立した。4月頃に江戸に到着し、築地の中屋敷(または鍛冶橋の土佐藩上屋敷)に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現・東京都中央区)の門人となる。道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小桶町千葉」として知られており、道場には定吉のほかに長男・重太郎と3人の娘(そのうち一人は龍馬の婚約者と言われるさな子)がいた。小千葉道場は千葉周作の「玄武館」(大千葉)と同じ場所に存在したが、身分制度が厳しかったために上級武士は玄武館の所属、下級武士は小千葉道場所属とはっきり分かれており、ともに稽古をすることもなかった。のちに小千葉道場は桶町に建てられた道場に移転するが、そこでも館名がないのはこのためである。ただし、『汗血千里駒』では坂本龍馬は千葉周作の門人としており、嘉永6年当時の桶町には千葉定吉の道場が建てられていなかったことから、二度目の遊学時に桶町千葉道場の門下になったのではという説もある。兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している。 龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の6月3日、ペリー提督率いるアメリカ海軍艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。自費遊学の龍馬も臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就いた。龍馬が家族に宛てた当時の手紙では「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っている。 同年12月、剣術修行の傍ら龍馬は当代の軍学家・思想家である佐久間象山の私塾に入学した。そこでは砲術、漢学、蘭学などの学問が教授されていた。もっとも、象山は翌年4月に吉田松陰の米国軍艦密航事件に関係したとして投獄されてしまい、龍馬が象山に師事した期間はごく短いものだった。 安政元年(1854年)6月23日、龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。在郷中、龍馬は中伝目録に当たる「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」 を取得し、日根野道場の師範代を務めた。また、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽紀略』を編んだ絵師・河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、のちの同志となる近藤長次郎や長岡謙吉らを紹介されている。また、この時期に徳弘孝蔵の下で砲術とオランダ語を学んでいる。 安政2年(1855年)12月4日、父・八平が他界し、坂本家の家督は兄・権平が安政3年(1856年)2月に継承した。同年7月、龍馬は再度の江戸剣術修行を申請して8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着し、大石弥太郎・龍馬と親戚で土佐勤王党を結成した武市半平太らとともに築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿した。二度目の江戸遊学では桶町千葉道場とともに玄武館でも一時期修行している。 安政4年(1857年)に藩に一年の修行延長を願い出て許された。同年8月、盗みを働き切腹沙汰となった従兄弟同士にあたり、のちに日本ハリストス正教会の最初の日本人司祭になる山本琢磨を逃がす。安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。北辰一刀流免許皆伝と言われることもあるが、発見・現存している目録は「北辰一刀流長刀兵法目録」を与えられたものである。一般にいう剣術ではなく薙刀術であり、北辰一刀流「初目録」である。ただ、千葉道場で塾頭を務めたことや、「免許皆伝を伝授された」など様々な同時代の人物の証言もあるなど、優れた剣術家であった証拠も残っている。同年9月に土佐へ帰国した。
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