初めての江戸遊学と藩政への登場とは? わかりやすく解説

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初めての江戸遊学と藩政への登場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:57 UTC 版)

河井継之助」の記事における「初めての江戸遊学と藩政への登場」の解説

嘉永5年1852年)の秋頃、継之助は江戸遊学する江戸には既に三島小林虎三郎らが佐久間象山の許に遊学来ていた。継之助はまず、三島仲介古賀謹一郎渓)の紹介斎藤拙堂の門をくぐったまた、同じ頃に象山の塾にも通い始めた。継之助は遊学中、三島小林らと江戸の町見物したり酒を飲んだりと自適日々送った当時大坂適塾にいた小山小林の手紙でそんな3人の様子知り、たいへん羨ましい長岡知人の手紙の中で述べている。 翌嘉永6年1853年)、継之助は斎藤の許を去り古賀の久敬舎に入門し寄宿する斎藤の塾を去ったのは、そこには自分を高める会心の書がなかったためと言われる一方象山の塾には依然通い続け砲術教え受けていた。ただし継之助は象山人柄は好きではなかったらしく、後に同藩の者に「佐久間先生豪いことは豪いが、どうも腹に面白くないところがある」と語ったという。久敬舎では講義はほとんど受けず書庫巡りあった『李忠定公集』を読みつつ、それを写本することに日々費やした。そのため継之助は、門人たちからは「偏狭固陋」な人物思われた。同年ペリー率いアメリカ海軍艦隊日本現れると(黒船来航)、当時江戸幕府老中であった藩主牧野忠雅三島黒船偵察派遣する一方家臣らに対し広く意見求めた。それを受け、継之助、三島小林らはそれぞれ建言書を提出する。ともに藩政改革記した内容だったようだが、三島小林その内容が忠雅の不評を買い帰藩を命じられた。反対に継之助の建言藩主目に留まることとなり、新知30石を与えられ御目付評定方随役に任命され、帰藩を命じられた。そのため、『李忠定公集』全巻写し終え題字認めてもらうと、継之助は久敬舎を去り長岡戻った藩政刷新企図して帰藩した継之助であったが、藩主独断での人事反感持った家老など上層部風当たり強く結局何もできないまま2ヶ月ほどで辞職する。この固陋有様憤慨した継之助は藩主対し門閥弾劾建言書を提出するその後、特に何もないままの日々を過ごす。安政2年1855年)、忠雅の世子牧野忠恭お国入りにあたり、継之助は経史講義を行うよう命じられる。しかし継之助は「己は講釈などをするために学問をしたのではない、講釈をさせる入用があるなら講釈師に頼むが良い」とこれを跳ね除けたため、藩庁からお叱りを受ける。この間射撃練習打ち込んでその腕を上げる一方三島とともに奥羽遊歴した。安政5年1858年)、家督継いで外様吟味役になると早速、宮路での争い解決へ導いた

※この「初めての江戸遊学と藩政への登場」の解説は、「河井継之助」の解説の一部です。
「初めての江戸遊学と藩政への登場」を含む「河井継之助」の記事については、「河井継之助」の概要を参照ください。

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