斎藤拙堂とは? わかりやすく解説

さいとう‐せつどう〔‐セツダウ〕【斎藤拙堂】

読み方:さいとうせつどう

[1797〜1865江戸末期儒学者津藩士。名は正謙。古賀精里門下。藩の督学となり、育英尽力。著「拙堂文集」など。


斎藤拙堂

読み方さいとう せつどう

江戸後期儒者江戸生。増村作蔵次男。名は正謙、字は有終通称徳蔵、拙翁。別号鉄研学人等。昌平黌古賀精里に学ぶ。津藩藩校設立の際、藩主藤堂高兌により学職抜擢され藩校発展尽くした歴史文章秀で、『海外異伝』『海防策』等多数の著がある。慶応元年1865)歿、69才。

斎藤拙堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/13 09:43 UTC 版)

斎藤 拙堂(さいとう せつどう、1797年寛政9年)[1] - 1865年9月4日慶応元年7月15日[1])は、幕末朱子学者は正謙、は有終、通称は徳蔵[1]。号は拙堂、鉄研学人[1]

生涯

四天王寺の墓

1797年(寛政9年)、津藩士の子として江戸藩邸内にて生まれ、昌平黌古賀精里の教えを受ける[1][2]1820年文政3年)24歳で、古文に通じた人物として藩校有造館の創設に加わり、1824年(文政7年)藩主藤堂高猷侍講となった[2]

1841年天保12年)、郡奉行に任ぜられ、地方役人や庄屋の不正を糺した[2]弘化元年(1844年)、有造館の督学(校長)となると[2]、学則を改め人材を挙げ、広く書籍を購入し文庫を増設し、『資治通鑑』294巻を刊行した。アヘン戦争後には海外事情についても研究を重ね、時勢の変遷にも敏感に対処した。拙堂自身は一貫した朱子学者であったが、西洋の文物でも優れているものはそれを認めて、和漢洋の折衷によってより良いものにしていくこと(和洋折衷)を唱えた。そのため、有能な藩士を江戸に送り、洋学や西洋兵術を学ばせ、種痘術の渡来に際しては有造館に種痘館を開き、率先して藩内に施行し、洋式軍制を取り入れるなどの藩政改革にも関わった。

1855年(安政2年)、幕府の命で江戸に赴き、将軍徳川家定に拝謁した。幕府は拙堂を儒官に抜擢しようとしたが、主君の元を去り難しと拙堂はこれを辞退している[2]

1859年(安政6年)致仕[1]、1865年(慶応元年)没[2]。墓所は三重県津市四天王寺[2]

1924年(大正13年)、正五位を追贈された[3]

人物

頼山陽大塩平八郎渡辺崋山吉田松陰など、多数の儒者、文人との交流ももった。弟子に三島中洲河井継之助らがいる。

その博学ぶりは広く世に知られたが、特に漢文をもって知られ、古今の漢文について評した『拙堂文話』や武士のあり方について論じた『士道要論』『海防策』など、その執筆分野は多岐にわたっている[1]。また経世論の関心も強く、海外事情などを調べ『海外異伝』『魯西亜外記』などを著した[1]。しかし、拙堂の最も得意としたのは紀行文であり、『月瀬記勝』は大和国月ケ瀬を梅の名所にたらしめ、頼山陽の『耶馬渓図巻記』と並んで紀行文の双璧とされ、拙堂の名を高めた。

後南朝の名付け親としても知られている。

著書

  • 『伊勢国司記略』
  • 『拙堂紀行文詩』
  • 『拙堂文話』
  • 『月瀬記勝』
  • 『南遊志』
  • 『海外異伝』
  • 『魯西亜外記』
  • 『士道要論』
  • 『海防策』

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 山本博文監修『江戸時代人名控1000』小学館、2024年11月、144頁。ISBN 9784096266076 
  2. ^ a b c d e f g 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典 第3巻』岩波書店、1984年4月、21頁。 
  3. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.52



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