初めての挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:21 UTC 版)
オリンピックイヤーの1988年に入り、自他共に金メダルへの期待が高まる岡田だが、選考会となる講道館杯を2ヶ月後に控えた2月の練習中、乱取稽古の際に左手首を骨折した。以降は走り込み中心のメニューに切り替えたものの、講道館杯欠場で五輪出場に黄信号が点り焦りを感じた岡田は、気が付けばギプスを付けたまま打ち込み練習を行っていた。6月の全日本選抜体重別選手権は大会1月前になりようやくギプスが取れ、満足な稽古もできず7-8割のコンディションで迎えた。手首をテーピングでガチガチに固めての出場であったが、岡田は見事これを制して復活をアピールし、1988年ソウルオリンピックの日本代表に選出。 しかし、五輪本番を目前に控えた姫路市での合宿の際、今度は足を負傷。完治しないまま2週間後には代表合宿に再合流するも、自分を追い込む練習もできぬまま迎える五輪は、1年前の世界選手権とは対照的に不安だらけだった。五輪本番では、自身の練習不足に対する不安や、勝たなければいけないというプレッシャーに加え、同じく日本代表で初日に出場した細川伸二が会場の大ブーイングの中、不可解な判定で敗れた事に憤りを感じ、とめどなく押し寄せる興奮に岡田は3日間一睡もできぬまま、試合当日を迎えた。集中力・判断力を欠きながらも初戦は突破したものの、3回戦でフランス代表のパスカル・タイヨに横四方固で一本負けを喫す。試合後に畳の上で大の字に寝たまま動けなかった時の心境を、「負けたショックではなく、疲れ切ったせいで起き上がれなかった。そのまま寝てしまうような感覚に襲われた。」と岡田は述懐する。 初めて挫折を味わった岡田は、五輪後はしばらく試合から遠ざかる。また、時を同じくして筑波大学の大学院を受験するも不合格となり、ダブルパンチを受けた。
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