初めての結婚
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「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「初めての結婚」の解説
こうして、時計職人としてもっぱらヴェルサイユ宮殿に出入りし、高貴な人々の注文に応じて時計の製作に励んでいたピエールであったが、それを切っ掛けとして彼に一人の女性との出会いが訪れた。ヴェルサイユ宮殿で彼を見かけ、その評判と若さに惹かれた人妻、フランケ夫人が彼の工房に時計の修理を目的として訪れたのである。彼女の夫であるピエール=オーギュスタン・フランケは、パリ郊外に土地を所有しており、王室大膳部吟味官(簡潔に言えば、料理の配膳係)という役職を務める貴族であった。初めは単なる時計職人とその顧客という関係でしかなかったが、フランケ夫人の希望もあって急速に夫妻とピエール(カロン)の関係は深まっていった。フランケはすでに齢50歳を超えて体力的にもかなり衰えていたため、夫人の助言を聞き入れて「王室大膳部吟味官」の役職をカロンに売り渡すことにした。1755年11月9日、ルイ15世直筆の允許状を手に入れ、ピエールは正式に宮廷勤務の役人となった。宮廷に出入りする単なる時計職人から、佩刀を許された役人として社会的な地位を一つ高めたのであった。 フランケ夫人との出会いは出世の役に立ったが、そのピエールとフランケ夫妻の三角関係は世間で広く噂されるようになった。フランケは病気に苦しんでおり、その夫人とピエールは若くて魅力的である。間違いが起こらないほうが不思議な状況であって、実際に夫人とピエールがいつごろから恋仲となったのかはわからないが、遺されている往復書簡から察するに1755年末にはすでに関係があったと思われる。この書簡からは、少なくともフランケ夫人は不倫に悩み苦しんでいることがうかがわれるが、ピエールは悩みや謝罪の色などつゆも見せておらず、ただ恋にのぼせた者にありがちな身勝手な考えが示されているのみである。1756年1月3日、フランケは脳卒中でこの世を去った。ピエールが役職を得てからまだ2か月しか経っておらず、その代金支払いに着手もしていないころであった。ピエールは運よく、夫人も役職も、ただ同然で手中に収めたのである。 1756年11月22日、正式にフランケの未亡人とピエールは結婚した。身分の釣り合わないこの結婚に父親は許可を与えてはいるが、結婚式に出席していないため、こころから祝福していたかどうか疑問である。だがともかく、ピエールはこうして父親のもとから完全に独立したのである。妻の所有地の土地(Bos Marchais)の名前を借用してカロン・ド・ボーマルシェと貴族を気取った名前を使用し始めたのもこの頃であるが、これは単に彼の自称に過ぎず、正式に貴族に列せられた訳ではない。実態は単なる宮廷勤務の役人であったわけだが、こうした貴族風の名前を使い始めたところから察するに、すでにこの頃には強烈な出世願望が彼のこころで燃え上がっていたと考えられる。 さて、初めての結婚生活はどうだったか。結婚後2か月してからの彼の手紙からは、妻の変貌にうんざりした様子が窺える: …以前は周囲が皆、我々2人の愛を禁じていたのです。でも、その時期の愛はなんと激しく生き生きしていたことか。そして私の境遇にしたところで、現在味わっている境遇よりはるかに好ましかったのに!(中略)陶酔と幻想の時代には、私が愛情込めたまなざしを注ぎさえすれば喜びに耐えなんばかりであった、あのジュリーは、今や並みの女でしかありません。彼女は家計のやりくりの難しさを思うと、かつて地上の誰よりも好きであった男と一緒でなくても、充分生きていけると思っているありさまです。… 上記のように新婚早々、結婚生活に幻滅したボーマルシェであったが、この結婚生活は長く続かなかった。結婚から1年も経たないうちに妻は腸チフスに倒れ、そのまま亡くなったのである。1757年9月29日のことであった。ところが、ボーマルシェを直撃した災難はこれだけではなかった。結婚契約書の登録を怠っていたために、妻の遺産は妻の実家に転がっていってしまうし、新婚生活での借金は自身に降りかかってきたのである。ボーマルシェはこの一件で、数年間窮乏に苦しむこととなる。
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