初めてアムール川に向かったロシア人たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 19:42 UTC 版)
「清露国境紛争」の記事における「初めてアムール川に向かったロシア人たち」の解説
1638年、ロシア人は先住民から「チルコル川」近隣で、銀が採れるという噂を聞いた。コサックのイヴァン・モスクヴィチンが隊長となり、偵察に向かった。彼らはロシア人としてはじめてオホーツク海に到達した。「チルコル川」は、アムール河であった。だが、モスクヴィチンらがアムール河に到達したかどうかは不明である。 トムスク長官シチェルバトフは「チルコル川」遠征のためにふたたびイヴァン・モスクヴィチンを派遣しようとしたが、ヤクーツク長官ゴロヴィンが、先手を打ってコサックのヴァシリー・ポヤルコフ以下132名を送りだした。 1643年、ポヤルコフらはヤクーツクを出発、翌年にはアムール河を下ってウスリー河口に到達した。地元先住民との紛争や、食糧不足による飢餓で多数が死亡した。1646年にヤクーツクに生還したのは25名である。この探検により、ヤクーツク長官は、アムール河河口付近のギリヤーク人(ニブフ人)はどこにもヤサクを納めていないこと、人口が多く、毛皮獣、穀物も豊かであることなどの報告を受けた。また、「ボルボイカン」がこの地に貢納を求めているが、彼らの支配が及んでいないことも明らかになった。「ボルボイカン」はモンゴル語で清朝皇帝である。だが、1644年は清の入関の年であり、順治帝らはロシア人に関わる余裕はなかった。
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