江戸露見説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 00:13 UTC 版)
1996年に旧来の説を否定する論文が出され、オランダ商館長の日記や三井 越後屋長崎代理店をしていた長崎商人の中野用助による報告書の写しから江戸で露見したとする江戸露見説が有力になっている。 長崎市鳴滝にあるシーボルト記念館の研究報告書である『鳴滝紀要』第六号(1996年)発表の梶輝行の論文「蘭船コルネリウス・ハウトマン号とシーボルト事件」で、これまで通説だった暴風雨で座礁した船中から地図等のご禁制の品々が発見されたという説が後日の創作であることが判明した。コルネリウス・デ・ハウトマン号は1828年10月に出航を予定していたが、同年9月17日夜半から18日未明に西日本を襲った猛烈な台風(いわゆるシーボルト台風)で座礁し、同年12月まで離礁できなかったのである。従来の説は壊滅的な被害を受けて座礁した船の中から、禁制品の地図類や三つ葉葵の紋付帷子などが見つかっていたことになっていたが、座礁した船の臨検もなくそのままにされ、船に積み込まれていたのは船体の安定を保つためのバラスト用の銅500ピコルだけだった。 2019年、中野用助が江戸に送った報告書を本店で写した資料が見つかった。中野の報告書によると事件は江戸で露見し、飛脚で長崎に通報され、長崎奉行所がシーボルトを取り調べて様々な禁制品が見つかったと述べられており、オランダ側の資料とも一致する内容となっている。
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