城と城下町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 08:24 UTC 版)
「鶴舞町」および「鶴舞 (市原市)」も参照 藩庁は陣屋であったが、井上家は城持大名であったために「鶴舞城」と公称した。現代の鶴舞は「日本最後の城下町」と称している。 藩庁跡地には小学校(現在の市原市立鶴舞小学校)が建てられた。藩庁跡には鶴舞城本丸跡の碑や、井上正直の像が立てられているほか、周辺には石川倉次の像、伏谷如水と清水次郎長の記念碑など藩ゆかりの記念物がある。 鶴舞は「本格的な町作りが行われた」という評もあり、1889年(明治22年)の『上総国町村誌』には「村は市街たり」と記されている。『上総国町村誌』によれば人口1732人(1886年(明治19年)時点の調査という)を数え、市原郡役場鶴舞出張所や千葉警察鶴舞分署があった。1889年(明治22年)の町村制施行に際し周辺の村とともに鶴舞村を発足させ、1891年(明治24年)1月には鶴舞町となった。郡内では郡庁所在地の八幡町に次いで2番目に町制をおこなった町である。鶴舞町は昭和の大合併で南総町となり、ついで市原市に編入された。
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