惣右衛門殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/13 07:42 UTC 版)
覚書において、基本的には「我等」という一人称、もしくは自分たちのことを指す呼称を使っているが、丹波国時代の記述では「惣右衛門殿」という記述が見られる。覚書を翻刻した天理大学図書館司書の木村三四吾は自筆のために誤って書いたものであるとしている。白峰旬は「惣右衛門殿」は同じ名を名乗った父親であるとし、息子として父の配下として戦ったものであり、「我等」は自らのことであるとしている(白峰旬 2020, p. 53)。白峰は「惣右衛門殿」の記載は丹波国内の戦いにのみ登場することから、父親は1579年(天正7年)8月以後の早い時期に死去したと推測している。郷土史家の芦田岩男は、この表記は赤井直正の甥赤井五郎(赤井忠家)より常に上位に記されており、崩し字が類似している「悪右衛門」を称していた赤井直正を指すものではないかとしている。 本文中にはたびたび大月氏の名前が出ており、「大月助三郎殿」という人物が「惣右衛門殿」と従兄弟であると書かれている。「惣右衛門殿」が惣右衛門の父であるとしている白峰旬は、大月氏は丹波国の国人領主の大槻氏であり、本城惣右衛門は国人領主の縁戚ではないかとしている。
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