手永の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 18:27 UTC 版)
江戸時代中期になると、太平の世となるが、天災による飢饉などが度々おこるようになった。手永は統治機構という色合いから、徐々に地方行政・社会基盤整備の基本単位としての性格を強めていった。郡単位であった代官は、手永単位に置き換えられ、さらに代官を惣庄屋の兼任職とするなどの改訂が一部で行われた。 江戸末期には、各地で盛んに基盤整備事業(新道、用水路=井手、ため池、新田開発など)が行われたが、その中心として手永や惣庄屋は重要な役割を果たした。地方に残るインフラストラクチャーの多くは、この時期に整備されたものである。一例として、通潤橋を建設する際には矢部手永が中心となり、細川藩の計画承認を得ている。また、藩から莫大な建設事業資金を地元民の代わりに借りうけ、事業の実施を行っている。(完成後まもなく幕藩体制が崩壊。一部の資金は、返済をせずにうやむやになった。)
※この「手永の変遷」の解説は、「手永」の解説の一部です。
「手永の変遷」を含む「手永」の記事については、「手永」の概要を参照ください。
- 手永の変遷のページへのリンク