手永の語義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 18:27 UTC 版)
明治以降の郡治では、村は郡に直結した最小の自治体だが、藩政時代の村は郡には直結せず、その中間に数か村から数十か村を一単位とした行政区画が存在した。これは地方によって、組、筋、通など種々な名称で呼ばれていたが、多くは組と称し、組内に一人の大庄屋を置き、大庄屋はその管轄下にある数か村を支配し、数人の村庄屋を配下におさめていた。肥後藩ではこの区域を手永(もしくは懸)と呼び、大庄屋を惣庄屋と呼んだ。
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