身内との争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/18 13:33 UTC 版)
「シャー・シュジャー (ムザッファル朝)」の記事における「身内との争い」の解説
即位した後は一族の反乱、特に次弟のシャー・マフムード(英語版)がジャライル朝のシャイフ・ウヴァイス1世と手を結んで反乱したことに悩まされたが、幸運にも1374年に両名ともに死去した。このため、一気に窮地から脱して逆にジャライル朝に侵攻する。ジャライル朝では内紛が起こっていたため、その領土を奪っていった。 シュジャーはイラン南部・北西部へ勢力を拡大するため、積極的な軍事行動を行なった。アゼルバイジャン遠征には成功した。だが直後に本拠で反乱が起こって撤退を余儀なくされ、長男のザイヌル・アービディーンをジャライル朝の王族と婚姻させて支配の強化を図った。だがこの婚姻策は失敗し、ジャライル朝はイラン北西部に侵攻してその領土を奪った。また国内では甥のシャー・マンスールによる反乱が起こり、国外からはアフマドの侵攻に悩まされ、王朝の安定化を実現できなかった。1384年10月9日に本拠シーラーズに帰還してまもなく死去した(54歳)。
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