一族の出自と生い立ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 18:12 UTC 版)
「ジョセフ・P・ケネディ」の記事における「一族の出自と生い立ち」の解説
ジョー(ジョセフ・P・ケネディ・シニア)は父パトリック・J・ケネディ、母メアリー・オーガスタ・ヒッキーの長男としてマサチューセッツ州ボストンに生まれた。父は実業家であり、アイルランド系アメリカ人コミュニティーの指導者として知られていた。ジョーの祖父パトリック・ケネディ[要曖昧さ回避]は1849年にアイルランドからアメリカ合衆国に移住してきたため、ジョーはアメリカ移住後の三代目であった。移住後、一族はアメリカ社会でのステータスを少しずつあげていったが、依然としてボストンではアイルランド系は上流階級を形成するイギリス系プロテスタント市民(「ボストン・ブラーミン」と呼ばれた)からはよそ者扱いであった。パトリック・J・ケネディは民主党員として1885年にマサチューセッツ州選出下院議員に当選した。 ジョーが生まれたとき、すでにケネディ家は裕福であり、ボストンのみならず東海岸において影響のある一族であった。父パトリックは長男ジョーに期待をかけ、一流校であるボストン・ラテン・スクールに進ませた。同校がボストンのプロテスタント系エスタブリッシュメントの牙城ともいうべき学校であったことから、両親がジョーに対してカトリックの枠にとどまらずに、さらなる社会的飛躍を遂げることを望んでいたことがうかがえる。ジョーの成績は決してよくなかったが、クラスメートから人気があったらしく、級長に選ばれたという記録が残っている。ジョーはハーバード大学に進学した時、ヘイスティ・プディング・クラブやデルタ・ウプシロン・クラブには加入できたが、ポースリアン・クラブのような一流クラブからは入会を拒絶された。 ジョーはハーバード時代、野球部で活躍したとよく喧伝したが、実際には1年次以降チームに入れず、4年の最終試合の9回にファーストとして出場したのみであった(最終試合に出場した選手にはハーバード野球チームの紋章がもらえることになっていたため、ジョーは卒業後の進路の話をちらつかせてキャプテンを説得し、なんとか出場させてもらえたというのが真相であった)。このとき、ファーストで最後のアウトをとったジョーがウィニングボールを勝利投手に渡さずに、ポケットに入れて帰ったことが、その人となりを表すものとして語り草になった。
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