義不帝秦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:39 UTC 版)
趙が長平の戦いで惨敗した後、秦軍は趙の都である邯鄲を包囲した。魏の安釐王は新垣衍を邯鄲に派遣し平原君に遊説させた。彼は平原君に孝成王に秦の昭襄王に「帝」となるよう勧めることを説いた。趙に遊説していた魯仲連はこのことを知り、平原君に新垣衍と面会できるよう頼んだのである。魯仲連は、彼に、秦王が「帝」となることの不利益を説き、それを納得させたのである。 秦軍はこのことを知り、兵を五十里引かせた。時を同じくして信陵君が魏軍を率いて秦軍を攻撃したので、秦軍は包囲を解いて撤退した。この後、平原君は魯仲連に褒美を与えようとしたが、魯仲連は受けとらなかった。
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