細川利愛とは? わかりやすく解説

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細川利愛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/02 10:04 UTC 版)

 
細川 利愛
時代 江戸時代後期
生誕 天明8年7月8日1788年8月9日
死没 天保12年7月4日1841年8月20日
改名 富之助、中之助(幼名)→利愛
墓所 東京都品川区北品川の東海寺妙解院
官位 従五位下、采女正
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
肥後新田藩
氏族 細川氏
父母 父:細川利庸、母:恵明院(白鳥氏)
養父:細川利国
兄弟 利国利愛、利安、利和、利豊、興津利器、黒沢方利
正室:明姫(方子、酒井忠哲の娘)
側室:山川氏、ミネ、ミチ
利正、次男、利永、倫親、5男、6男、女子4名
養子:利用
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細川 利愛(ほそかわ としちか)は、肥後新田藩の第8代藩主。

生涯

天明8年(1788年)7月8日、第6代藩主・細川利庸の次男として生まれる。文化6年(1809年)9月に兄で第7代藩主の利国の養子となり、文化7年(1810年)に兄が死去したため跡を継いだ。同年12月に従五位下、采女正に叙任する。天保4年(1833年)11月8日、病気を理由に兄の長男・利用を養子として跡を継がせて隠居し、天保12年(1841年)7月4日に死去した。享年54。

四男・倫親

四男の倫親は利愛が41歳のときの子で、「四十二の二つ子」の風習(男の大厄である42歳の時に2歳になる男児は親を殺すと言い伝えから養子に出す習わし)により、細川家の家老・緒方十左衛門の養子となった[1]。その際、倫親には終身5人扶持と年5両の衣服料が細川家から下賜されるとの約束がなされ実行されていたが、明治4年(1871年)の廃藩置県を契機に、三男で細川家当主の細川利永はその約束を反故にして倫親への扶助を打ち切ったため、生活困窮に陥った倫親は3人の娘を奉公に出した[1]。そのうちの一人が宮武外骨の女中(のちに妻)となり、窮状を見かねた外骨は倫親への支払いを利永に訴え出るという騒ぎを起こした(細川家事件)[2]

系譜

父母

正室

側室

  • 山川氏
  • ミネ
  • ミチ

子女

  • 細川利正(長男)
  • (次男)
  • 細川利永(三男) 生母は山川氏
  • 緒方倫親(四男) 生母は山川氏
  • (五男)
  • (六男)

養子

脚注

  1. ^ a b 『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り―漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代』坪内祐三、マガジンハウス、2001年、p482-
  2. ^ 華族醜聞細川家事件 : 一名・幽斎血の涙. 第1編第2編横田甲子三郎 編 (横田甲子三郎, 1894)



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