加藤泰済
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加藤泰済像(如法寺蔵)
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 天明5年11月15日(1785年12月16日) |
死没 | 文政9年9月20日(1826年10月21日) |
改名 | 作内、泰済 |
別名 | 泰重、泰定 |
戒名 | 文竜院殿 |
墓所 | 東京都台東区松が谷三丁目の海禅寺 |
官位 | 従五位下遠江守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 伊予大洲藩主 |
氏族 | 加藤氏(光泰系) |
父母 | 加藤泰候、知貞院 |
兄弟 | 泰済、泰倫、松平定信養女ら |
妻 | 松平定信娘保寿院、妙相院 |
子 | 泰幹、松浦曜正室、栄子 |
加藤 泰済(かとう やすずみ)は、江戸時代後期にかけての大名。別名は泰重、泰定。伊予国大洲藩10代藩主。官位は従五位下・遠江守。
略歴
9代藩主・加藤泰候の長男として誕生。幼名は作内。
天明7年(1787年)、父の死去により跡を継ぐ。当時数え3歳という幼少での相続であったため、公的には天明元年(1781年)5月23日生まれとして届け出られた[1]。幕命による公役の負担、藩で相次ぐ火災や大洪水による天災などにより、藩財政は大いに悪化した。このため倹約令を出し、家臣の知行削減を厳しく行なった。文政元年(1818年)頃には効果が現れて、藩財政は安定したといわれている。また、文武を奨励し、商礼条目制定による商業統制なども行なった。
文政9年(1826年)9月20日に死去し、跡を長男の泰幹が継いだ。享年42。法号は文竜院殿。墓所は東京都台東区松が谷の海禅寺。
系譜
脚注
- ^ 『大洲市誌』大洲市誌編纂会、1972年、p.156。
固有名詞の分類
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