とうしせん〔タウシセン〕【唐詩選】
唐詩選
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『唐詩選』(とうしせん)は、明の李攀竜が編纂したといわれる唐代の漢詩選集。出版年代は李攀竜の死後、16世紀末から17世紀初頭とされる。
- ^ 出典:『唐詩選』(岩波文庫版:全3巻、前野直彬註解)
- ^ 伝記不詳
- ^ 唐末の進士。伝記不詳。
- ^ 伝記不詳。大暦14年の進士で、秘書少監となった。
- ^ 大暦年間(770年頃)の人。伝記不詳。
- ^ 洛陽(河南省)の出身。玄宗の先天2年(713年)の進士。はじめは江南の地方を歴遊して文名が高く、「次北固山下」の「海日」の一聯は、張説の激賞を受けた。勅使として終南山(長安の南)に登ったこともあるというが、官歴は明らかでない。
- ^ 伝記不詳。荊叔は姓名では無く、万楚の字とする説もあるが、確実な根拠は無い。
- ^ 伝記不詳。
- ^ 曲阿(江蘇省丹陽)の人物(一説には済南の人物)。渭南(陝西省)の尉となり、司勲郎中(一説には金部郎中)となった。
- ^ 博州(山東省聊城)の出身。冀州(河北省衡水)刺史の崔庭玉の子と伝えられ、玄宗皇女晋国公主を妻とした。崔敏童の兄。駙馬(ふば)都尉となった。
- ^ 「崔署」としている本もある。宋州(河南省商丘)の出身。嵩山の少室山中にこもり、僧や道士を友として、読書や詩作にふけっていた。開元26年(738年)、首席で進士に及第したが、官歴は不詳。
- ^ 崔恵童の弟
- ^ 「崔櫓」としている本もある。宣宗の大中年間(850年頃、一説には僖宗の広明年間、880年頃)の進士で、棣州(山東省恵民)司馬となった。
- ^ 伝記不詳。「司馬札(しばさつ)」としている本もある。宣宗の大中年間(850年頃)に活躍した人。
- ^ 文宗の時代(870年頃)の人物。その詩集を『洞庭集』という(今は一部分しか伝わらない)ので、洞庭湖のほとりに住んだ人かと思われるが、事績は不詳。
- ^ 天宝の頃(750年頃)の人物。生涯官途につかなかった。高潔な人格を当時の人々から称賛され、また廬山に遊んだことがあるという以外に、事績は明らかでない。
- ^ 姓名・事績ともに不詳。終南山(長安の南)に住んでいたとも伝えられる。
- ^ 中宗の景龍2年(708年)の進士。皇族の陳王に仕え、また玄宗の弟の岐王の屋敷に出入りした。のちにある事件に連座して、山茌(さんし、山東省長清の東北)の県丞に左遷された。
- ^ 監察御史として将軍張仁愿(ちょうじんげん)に従い、北辺の地に出陣した。吏部郎中などになったらしいが、詳しいことは不明。開元7年(719年)には平盧(内蒙古自治区土黙特右旗)節度使になった。
- ^ 揚州(江蘇省)の人物。兗州(山東省)兵曹となった。賀知章と同時代の人物で、張旭、包融と合わせ、「呉中四士」とうたわれた。
- ^ 潤州曲阿(江蘇省丹陽)の人物。大暦年間(770年頃)の人物で、生涯官途につかなかった。「張朝」としている本もある。
- ^ 伝記不詳。『全唐詩』には陳祜(ちんこ)という詩人の名が見えるが、『唐詩選』所収の詩は載せていない。該当の詩は無名氏の作の中に入れられている。
- ^ 潤州曲阿(江蘇省丹陽)の出身。開元13年の進士。杭州余杭(浙江省)の尉となった。
- ^ 鄭州滎陽(けいよう、河南省)の出身。粛宗の乾元年間(758年頃)に袁州(江西省宜春)刺史となり、大暦初年(768年頃)には秘書監から江陵(湖北省)少尹に左遷された。
- ^ 関中(陝西省)の出身。王維の親友。安禄山の乱の後、蜀州(四川省崇州)刺史となったとも、尚書郎になったとも伝えるが、詳しいことは不明。
- ^ 伝記不詳。開元年間の進士。李頎の友人。
- ^ 潤州延陵(江蘇省丹陽)の人物。字は幼嗣。天宝7載(748年)の進士で、大暦年間に起居舎人となった。孟浩然について詩を学んだという。
- ^ 「劉廷琦」としている本もある。張諤と共に岐王の屋敷に出入りし、その罪によって雅州(四川省雅安)司戸に流された。
- ^ 伝記不詳。臨漳(河南省)の出身。中宗の頃(707年頃)、聞喜(山西省)の尉から集賢院学士・吏部員外郎を歴任した。
- ^ 天保年間の進士。官歴は不詳。
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