熊本藩の雲弘流
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一方、病弱とされた景雲は発奮し、従兄の鈴木弥次郎に従って剣術の習練を重ねた。享保9年(1724年)に景雲は肥後熊本藩の江戸藩邸に仕えるが、これは剣術師範としての仕官ではなく、中小姓を務めていた。宝暦4年(1754年)、藩主細川重賢は藩校「時習館」と武芸所「東西榭」を開設するが、このとき景雲に剣術師役となるよう要請する。景雲ははじめ固辞するが、藩主からの重ねての要請によって宝暦5年(1755年)に師役となり、多くの門人を育成した。景雲にはじまる肥後の雲弘流の歴代当主は、代々「東西榭」の師役を務めた。 幕末から昭和初期まで生きた17代井上平太は、雲弘流の道統を継いだほかに細川流(武田流)騎射・伯耆流居合など武芸諸般に秀で、大日本武徳会から剣道教士・弓道範士・居合術範士の称号を授与されている。また、18代目、井上駀伯雲も武徳会精錬証を受けている。
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