黒幕存在説とは? わかりやすく解説

黒幕存在説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:29 UTC 版)

本能寺の変」の記事における「黒幕存在説」の解説

VII. 黒幕存在説(黒幕説) 信長討ったのは光秀自身意思ではなく何らかの黒幕存在想定してその者の意向背景にあったとする説の総称黒幕複数想定するものは黒幕複数説に分類され共謀説と云う複合説参照朝廷黒幕説(朝廷関与説) 暦改訂問題尾張採用問題)、正親町天皇譲位問題三職推任問題など(朝廷との関係を参照)で、信長朝廷との間には緊張状態があったという前提で、朝廷光秀信長抹殺させたという説。中心となる黒幕想定を、正親町天皇誠仁親王、あるいは近衛前久勧修寺晴豊吉田兼見公家衆、または複数であると見るなど、多様に意見分かれるが、信長朝廷を滅ぼす意思持っていた、あるいは持っているではないかと彼ら朝廷側が思っていたということ前提とされ、この2つ前提土台にして成り立っている。(前述のように有力視された時期もあったが)朝廷黒幕説も仮説の域を出ていない。 立花京子は、信長による朝廷への圧力が変を引き起こしたとし、謀反光秀勧修寺晴豊近衛前久吉田兼見誠仁親王共謀とする。晴豊については『天正十年夏記(=日々記)』の斎藤利三処刑の日に「六月十七日天晴。早天ニ済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる者也。かれなと信長談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候」という記述があり、これを「利三(ひいては光秀)朝廷側の人間が『信長ヲ打ツ』謀議談合)を持っていた」と解釈する近衛前久については変後嵯峨隠れた上に、山崎の戦い後も神戸信孝追討令を出して執拗に行方を捜したことなどをあげ、「疑惑確定的」とする。吉田兼見については、変後事情聴取受けていること、さらに一級史料兼見卿記』(兼見日記)の原本内容本能寺の変前後1か月について欠けており、天正10年の項目は新たに書き直しされ、正本別本の二種類伝存することを、都合が悪いことを修正したためとする。誠仁親王は晴豊の義理の弟として知らなかったということは考えられないとし、三職推任問題反対者であって結局天皇にもなれず、『お湯殿上日記』『多聞院日記』にある不審死遂げたことを変との関連解釈している。立花主張では、5月17日から20日の間に前久と兼見中心として信長打倒陰謀練られたとした。 今谷明は、信長最大の敵は正親町天皇であったとする。天下統一事業達成可能性が高まる実力者信長無位無官のままでいることに、朝廷無言の圧力大きく感じたはずであるとし、天正9年2度馬揃え譲位を迫るための一大行事解釈した。しかし信長自分よりも上位存在認めたくないものの、信長皇位簒奪意思はなく、誠仁親王即位させて朝廷傀儡化するのが目的であった指摘。それは逆に言えば天皇権威依然として強力であったからであるとした。信長正親町天皇誠仁親王争い巻き込まれたくないと考えて三職推任を一時棚上げしていたとし、右大臣右大将辞めたのも、信長自身朝廷内紛不介入立場貫いたのも、すべてこのためとする。他方で、正親町天皇毛利氏大きな後ろ盾おかげで即位できたことから講和工作していたが、信長にはその気はなく毛利氏を滅ぼす計画であったそうした時に信長軽装備で洛中にいたことから朝廷意向汲んだ光秀動いたではないかとする。ただし、今谷治罰綸旨がなかったことから、正親町天皇黒幕そのもの否定している。 光秀は、天正7年1579年)に正親町天皇から直接褒美馬・鎧下賜されており、これは異例の事であった信長信忠討った後、6月7日誠仁親王からの勅使京都治安維持任されて、その後朝廷参内し金品銀子五百贈ったこのような疑わしい状況証拠がある一方で反論もある。まず綸旨出ていなかったこと、光秀勅命よるものであるという主張をしなかったことは、朝廷公に関与否定したことになる。誠仁親王家族までもが二条御新造にいたことは、親王らが戦い巻き込まれ死亡した可能性もあった。近衛前久は、本能寺の変当日または数日後出家しており、これを細川藤孝出家と同様、信長殉じた解釈され後々まで信長の死を惜しんだ和歌残していた。 『兼見卿記』の改竄については、金子拓は、前年天正9年記事書いた冊子そのまま10年以降書き進めていたが、たまたま6月冊子丁数尽きてしまい、そこでそれ以降別の冊子書き、後に改め清書したが、6月までの記事前年と同じ冊子のためそのまま残された、という本能寺の変とは全く関係ない理由によるとする。そもそも信長朝廷の間に対立関係があったことを前提としているが、むしろ協力関係ないし信長による朝廷再興路線があったとみる説もあり、金子は、平成26年2004年)に著書織田信長天下人〉の実像』で、天正9年馬揃え前年亡くなった誠仁親王生母新大典侍局の喪明けに、親王を励ます目的で開かれたもので、正親町天皇信長双方要望であり、軍事的威圧ではなかったとした。この説(いわゆる融和説)が正し場合朝廷黒幕説の前提成り立たない。「織田信長#朝廷政策」も参照 足利義昭黒幕説、足利義昭朝廷黒幕説 京を追われ毛利氏に擁されて備後国鞆幕府をひらく足利義昭がその権力奪い返すために黒幕となって旧家臣である光秀に信長を倒すように命じたとする説。藤田達生平成13年2001年)に著書本能寺の変群像 : 中世と近世相剋』を発表して義昭の深い関与主張したのである三職推任問題で、近々、信長朝廷征夷大将軍の任を求めれば承認される可能性があることを朝廷関係者から知った足利義昭が、その実現を恐れ、かつての家臣光秀信長暗殺持ちかけたとする。この説で藤田は、斎藤利三長宗我部元親姻戚関係から『香宗我部家伝証文』を根拠長宗我部氏毛利氏義昭を介して同盟結んだ想定し光秀四国政策中国攻め両方秀吉出し抜かれたことで自身失脚危惧していたことから、この申し出引き受けたとし、信長天皇謁見妨害するため本能寺の変実行したとする。四国説関連もあるが、変の目的遠征回避ではない。朝廷義昭共謀主張されており、同時に足利義昭朝廷黒幕説でもある。 この説の根拠としては、本能寺の変直前光秀上杉景勝協力求めて送った使者が、「御当方上杉のこと)無二御馳走協力申し上げるべき」(「覚上公御書集」より)と、明らかに景勝より身分の高い人物への協力促していること。加えて本能寺の変直後6月12日光秀紀州雑賀衆土橋重治送った書状において、「上意馳走申しつけられて示し給い快然に候」と光秀より身分の高い者からの命令を指す「上意」という言葉使った上で、「御入洛の事、即ち御請申し上げ候」「尚以て急度入洛の義、御馳走肝要に候」とその人物の入洛話し合われている点が挙げられるまた、6月13日義昭小早川隆景家臣乃美兵部丞に「信長討ち果たす上は、入洛の儀、急度」から始まる自身花押付き書状送り、「この機に忠功を示すことを肝要とし、本意においては恩賞与え。よって肩衣・袴これを遣わす」と自ら変の首謀者であることを宣言し毛利輝元小早川隆景入洛軍事行動要請していることなどであった。 この足利義昭黒幕説を最初に明確に否定したのが宮本義己である。宮本は、6月9日光秀細川父子宛てた覚書に、細川藤孝との共通の旧主である義昭存在が全く見えないことを指摘。もし義昭光秀謀反何らかの形で関わっていたとしたら、この書状義昭引き合い出さないのは不自然で、信義尊ぶ細川父子であればなおのこと有効であったはずであると主張した宮本はこれを義昭存在謀反名分はなっていなかったことを意味する解釈した。また打倒信長目指し行動続けていた義昭のもとに、信長自決させたという密書届けられ形跡はなく、それどころ光秀周辺とのつながりを示すような材料も全く見つかっていない。このことは毛利氏場合も同様である。信長の死を知らせ光秀使者秀吉陣営迷い込んで捕らえられ不手際も、義昭毛利氏本能寺の変を全く予期していなかったことの証である。もし義昭黒幕として光秀操っていたのなら、あらかじめ隠密使者算段が調えられていたに違いないからである。吉川広家覚書案文によれば毛利氏秀吉撤退の日の翌日も本能寺の変報入手していたが、変報知った後の毛利氏も、すでに秀吉との和議成ったことを理由織田軍を追撃しなかった。仮に義昭黒幕として光秀通じていたならば、光秀京都抑えていた段階で(義昭庇護する毛利氏秀吉への追撃思いとどまることなどありえなかったであろうし、むしろ計画通り一気攻勢をかけなければいけなかったはずである。以上のことから、宮本は「足利義昭黒幕と見るにはかなりの困難がともない学問的には全く否定材料しか見当らず肯定する要素はないのが現実である」と述べている。 他の研究者の反論としては、義昭の名前を隠す必要が見当たらないこと、逆に言えば光秀側から義昭の名前が出てこないことが直接関与否定する証拠となるというものである細川藤孝筒井順慶協力求めた際にも、義昭存在知らせておらず、義昭庇護していた毛利氏本能寺の変知らなかったことについて合理的な説明付かないことなどである。 藤田は、当時日本は「二人将軍頂点とする二つ幕府、すなわち「鞆幕府」と「安土幕府」による内乱時代にあったという見方示しており、本能寺の変そうした中で起きたとするのが藤田説で、この点でも示唆に富むものであり、染谷光廣も「この事件の原因義昭義昭仕えた人々動向、そして、光秀家臣団人的様成などを併せて考えてみる必要があると思うのである。そして、根深いところに義昭存在があったのである」と述べるなど、大義名分1つには成り得るが、直接指令があったのかどうか含めて義昭積極関与を示すような証拠依然として存在しない。ただし、藤田6月12日光秀から土橋重治にあてた書状考察し光秀信長打倒後に足利義昭奉じて入洛させ、織田政権代わる形で室町幕府再興するという明確な構想考えていたと指摘している。さらに2019年刊行の『明智光秀伝』では原文の「然而平出)御入洛事、即御請申上候」を「しかしながら将軍の)ご入洛の件につきましては既にご承諾申し上げています」と解釈した上で重要なのは、あらかじめ義昭側から上洛援助するようにとの働きかけがあったことだ。遅くとも史料認めた天正十年六月十二日までに、光秀旧主義昭元亀二年まで仕える)を推戴していたことになる」と、光秀義昭側には明確な連携があったとしている。 羽柴秀吉黒幕説 「もっとも利益をえた者を疑え」という推理セオリー則って、一番利益得た秀吉黒幕であると想定して将来に不安をもつ光秀唆して謀反を起させたとする説。宇都宮泰長などが書き、この説では中国大返しの手際の良さや、秀吉援軍要請は必要あったのか、などが論拠とされるが、史料的な裏付け全くない創作作品にしばしば見られる。「豊臣秀吉#本能寺の変の黒幕説」も参照 毛利輝元黒幕信長の死で直面した危機から脱して得をしたのが毛利輝元であったということから黒幕想定したものだが、根拠はない。米原正義毛利輝元穂井田元清も、吉川広家も、信長父子急死を「不慮」つまりおもいがけないことであると述べていることから、毛利輝元黒幕説は成立しない述べている。 徳川家康黒幕動機徳川家康主犯説と同じだが、家康光秀を裏で操る黒幕であったという説。「光秀僧侶だったのではないか?」とする作家小林久三提唱した南光坊天海光秀説に触発されて、歴史小説などで用いられたもので、創作。 この説の肝は、『本城惣右衛門覚書』やフロイスの『日本史』、『老人雑話』などに信長家康暗殺するという風説いわゆる家康暗殺説)があったという記述があることを根拠信長による家康暗殺計画実際にあったとする点と、光秀山崎の戦いの後も僧侶として生存し南光坊天海として家康仕えたとする点の2点である。陰謀論の中ではよく知られたもの。信憑性については定かではないが、この説を利用するフィクション陰謀論かなりある。 堺商人黒幕説(堺豪商黒幕説)、千利休説、堺商人徳川家康黒幕堺商人が自らの既得権を守るため、自治都市としての復権のために信長殺害計画したという説。利休仕組んだという利休黒幕説、堺商人家康共謀したという堺商人徳川家康黒幕説など、そこから派生した諸説含まれる新宮正春などの作家小説フィクション)として書いた新井英生も『歴史と旅』誌上自説述べ、「茶頭一人として信長の“楢柴”に対す執心ぶりを熟知していた津田宗久が、この名物を餌に信長謀殺企てたではないか思えると書いている。確かに堺商人今井宗久津田宗及)の招き信長本能寺入って茶会催しており、可能性がないわけではないが、根拠になるようなものは存在しないフロイス黒幕説・イエズス会黒幕説(ローマ教皇庁黒幕説、キリシタン・バテレン説) 宣教師イエズス会などが黒幕であったとする説。マカオ侵略危惧したとか、信長が神になろうとしたからとか、細川ガラシャなどキリシタン繋がり光秀動かしたとかいうような陰謀論で、多く創作根拠のようなものはほとんどないイエズス会黒幕説は、立花京子平成16年2004年)に著書信長十字架』で発表した立花主張では、大友宗麟イエズス会信長とを繋ぐ舞台廻しであり、「信長政権南欧勢力傀儡に過ぎなかった」とし、「信長イエズス会から資金提供受けていた」が、信長イエズス会逆らって自らを神格化したために見捨てられ暗殺されたとするイエズス会中心とする南欧勢力最終目的明帝国武力征服であり、変は信長から秀吉に首をすげかえるためのものに過ぎなかったという。反論として「当時イエズス会定収入は年2万クルザード程度であり、しかもその半分以上インド送金され、会を維持運営するのにも事欠く有様であった」などが挙げられ論拠信用欠ける『明智軍記』などを検証無く多数引用するなどの問題点批判された。 高野山黒幕天正10年当時高野山攻めが行われていて、高野山真言宗門徒畿内信長に逆らう最後勢力だった。本能寺の変によって攻撃中止されており、変で利益得た勢力1つとして黒幕説がある。 森蘭丸黒幕森蘭丸事前に本能寺の変察知していて、何らかの陰謀関与していたと言う説。考え込んで箸を落とした光秀見て謀反起こす気らしいと進言したという『常山紀談』に見られる逸話あるいは『森家先代実録』などにある光謀反警告から発展したもので、創作同説では複数パターンがあるが、例えば、『絵本太閤記』にある蘭丸による光秀殴打などから、光秀蘭丸との敵対関係がことらさら強調されており、蘭丸光秀を陥れ、讒言し殺害しようと度々計画する奸臣で、それに対す反撃本能寺の変という位置づけのものもある。 法華宗門徒黒幕安土宗論敗れた法華宗が、その遺恨から、大檀那門徒共謀して信長暗殺したという説。内部協力者存在指摘する茶屋四郎次郎本阿弥光悦斎藤利堯竹内季治などの法華宗門徒陰謀加わった可能性指摘するが、それらの連携を示すような根拠は全くなく、法華宗門徒自派寺院である本能寺焼いてしまうとすれば、それは仏罰を受ける大罪であり、そのような襲撃計画を練るとも考えにくい。 織田信忠黒幕織田信忠織田家臣信長排除しようとして本能寺の変起きたが、計画反して信忠死亡してしまったとする説。 光秀秀吉共謀天下取りの野望を持つ秀吉光秀共謀して援軍要請信長本能寺誘き出し光秀信長暗殺したという説。変が成功した後には秀吉準備していた中国大返し光秀討って口を封じ天下奪ったとする。共謀とは言うものの光秀猿回しであり、主導的な役割秀吉が担う。羽柴秀吉黒幕説の亜種作家創作光秀家康共謀本能寺の変光秀家康共謀であったとする説の総称信長家康潰し計画企てその実行を光秀命じたとし、本能寺家康呼び寄せ殺害する計画だったが、光秀信長裏切り家康共謀したというもの。「神君伊賀越え」の苦難世間謀るための隠蔽工作とされる信長が自ら仕掛けた罠に自分自身はまってしまったという点では信長自滅説に通じる。『本城惣右衛門覚書』やフロイスの『日本史』を家康暗殺計画があった論拠とするのは、徳川家康主犯説や家康黒幕説と共通するが、これに光秀天海説を追加したもので、天海となった光秀生存して徳川政権加わったとする。家康黒幕説との違いは、両者同志であるとする点。 共謀天海説について「とくに証拠となる史料はなく、作家流の創作分類せざる得ない」という指摘がある。 光秀秀吉家康共謀光秀秀吉家康三者共謀して信長暗殺したという説の総称土岐明智家滅亡阻止三者(または細川藤孝加えれば四者)が共謀したという説の中の有名になったものに、土岐明智家滅亡阻止説または土岐明智家滅亡回避説がある。この説は平成21年2009年)に光秀の子孫を自称する明智憲三郎著書本能寺の変 427年目の真実』で唱えた信長は堺見物から京に戻る家康本能寺呼び寄せ運び込んだ名物茶器時間稼ぎをし、隙を突いて本能寺呼び寄せた光秀軍勢家康重臣殺害しそのまま電撃的家康領を光秀細川忠興筒井順慶の軍で占領しようと考えていた。しかしながら光秀信長進め織田一族による中央集権化と、重臣遠国転封反発土岐一族再興縁故領地回復美濃尾張伊勢)が絶望的になったことと、家臣団のうち旧幕臣衆が光秀配下になったことでお家再興がなったのに遠国転封京都から離れることに不満を高め加えて将来旧家康領に転封になれば結束の強い三河武士団を治めることは困難であるとし、息子の代で土岐明智氏佐久間信盛のように滅亡するではないかという憂いから、一族存亡をかけて謀反踏み切ったとしている。光秀家康共謀し、さらに細川藤孝密告によって秀吉がこれをさらに利用して変後には秀吉によって全て隠蔽され光秀単独実行したものとする。憲三郎は「(本能寺の変の)動機複合的なものであり、最終的な決断信長の『唐入り』(=朝鮮侵攻にあったではないか思います天下統一に向け着々と進んでいたので、すぐにでも止めないと(唐入りまで)一気行ってしまうだろう焦っていたと思えます。その点で言えば光秀盟友である長宗我部征伐回避信長迫り拒絶されたことも、身の危険感じ大きな契機になった違いありません」と言う信長次男・信雄の子孫という織田宗家13世を称する織田信和は、「信長唐入り中国征服構想先兵として中国派遣決定的であった光秀が、子孫もろとも異国の地に移封されることを恐れて謀反走った」とする明智憲三郎推理支持している。 ただし信長唐入りについては、ルイス・フロイスの『日本史』を出典とするが、従来より根拠乏しく他は裏付けがないことが指摘されており、中村栄孝信長海外貿易考えていて秀吉唐入り亡き主君遺志継いだものとい通説は『朝鮮通交大紀』の誤読による人物取り違えであって信長対外遠征の計画はなかったとしている。信長による「唐入り」や「家康討ち」、光秀家康共謀など、多数前提の上成り立つこの説は、土台がかなり狭く綱渡りのように仮説につぐ仮説渡り歩く必要がある小和田哲男は、信長による家康暗殺光秀一族滅亡阻止という二重の陰謀について、「この二つ結論ありえない」と評している。また憲三郎先祖という光秀の子・於隺丸(おづるまる)という人物の存在もよくわからない懐疑的である。 明智憲三郎の説は、学術的には、批判するまでもなく明らかに荒唐無稽な説であると考えられているため、その説を詳細に批判しているのは、藤本正行日本軍事史)のような一部研究者のみである。こうしたなかで、明智憲三郎のこの説についてよ詳細に検討したのが、呉座勇一日本中世史)である。呉座もまた、明智憲三郎議論について、全体として「到底従えない」ものである結論づけている。その上そもそも古く歴史小説家の八切止夫らが、家康存在着目しているため、余人先駆けて本能寺の変の謎をすべて解明できたという明智憲三郎自身主張反してその説は新説とは言い難い信長光秀家康殺害命じていたのではないかという議論も、すでに藤田達生日本・中近世史)が明智憲三郎以前検討している。 呉座によれば明智憲三郎たしかに史料先行研究ある程度調べており、『惟任退治記』史料批判などの細かい部分では評価できる面はあるとする。しかし、以下のような数多く疑問点矛盾点挙げ明智憲三郎の説は「奇説」であると呉座は位置づけている。 信長には家康殺害する動機はない。むしろ、他の戦国大名との戦い続いている中で家康排除するのは不利益大きいと考えられる明智憲三郎は、家康殺害計画史料上の裏付けとして、『本城惣右衛門覚書』の「(本能寺の変直前に、光秀配下兵卒が、信長ではなく家康を襲うのだと勘違いした」という記述挙げている。しかし、主君信長除けば京都にいる有力武将は家康のみである以上、兵士たち家康を討つと思ったのは消去法による必然であり、この記述は、明智憲三郎の説の論拠ならない。『本城惣右衛門覚書』を除けば信長による家康殺害計画は、何ら史料的な根拠のない空論である。 光秀家康協力者にすることは不可能である。信長監視下にある安土において、光秀家康二人きり話し合うことは危険が大きく、非常に困難である。その上光秀信長による家康殺害計画伝えたとして、家康信じるとは考えがたい。そもそも謀反計画家康伝えるのは、漏洩の危険があまりに大きい。 光秀家康協力者にする利点乏しい。なぜなら、家康協力者とせずとも、武田家旧臣上杉氏後北条氏といった敵がいる以上、東国織田軍や徳川軍光秀攻撃する余裕はないからである。 他の黒幕複数毛利輝元足利義昭朝廷黒幕説、近衛前久徳川家康黒幕説、堺商人徳川家康黒幕説、上杉景勝羽柴秀吉黒幕説、徳川家康・イギリス・オランダ黒幕説、足利義昭羽柴秀吉毛利輝元黒幕説は、それぞれ複数共謀者想定した説。複合説参照

※この「黒幕存在説」の解説は、「本能寺の変」の解説の一部です。
「黒幕存在説」を含む「本能寺の変」の記事については、「本能寺の変」の概要を参照ください。

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