中世と近世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/24 23:45 UTC 版)
1188年にパーダーボルン司教ベルンハルトがコルバッハにゼスター都市権を与えた。コルバッハは、ケルン - ライプツィヒ間およびフランクフルト - ブレーメン間の交易路が交差する位置にあり、このため手工業と商業が急速に発展し、コルバッハは繁栄した。旧市街地域はすべての住民を容れるに十分ではなくなった。商人達は2つの新しい町を市域の外に建設した。これらの新都市はすぐに元の街と融合し、一つの街となっていった。14世紀に旧市街にキリアンス教会、新都市にニコライ教会が建設された。 1377年に旧市街と新市街は合併した。2つの街の境界に統一市庁舎が建設され、現在も市庁舎はその位置にある。1349年に皇帝カール4世(ただし、当時はまだローマ王であった)がこの街を訪れた。やがてコルバッハはハンザ同盟に加盟し、1469年に初めて加盟者として記録されている。これによりコルバッハは現在のヘッセン州で唯一ハンザ同盟に加盟した都市となった。1414年にこの街を取り囲む二重の市壁が完成した。市壁には、この街に出入りするための5つの門が設けられた。トレンケ門、ダルヴィヒカー門、エンザー門、レンゲフェルダー門、ベルンドルファー門である。これらのうち、エンザー門だけが現存している。 宗教改革により、ヴァルデック伯領全域と同様に、この街もプロテスタント化された。現在もコルバッハではプロテスタントが大勢を占めているが、19世紀以降カトリック信者が再び増加し、2つのカトリック教会(古いマリエン教会と近代的なヨーゼフス教会)が設けられた。さらにノルトライン=ヴェストファーレン州に接する西の市域では、ほぼ完全に(ヒラースハウゼン)、あるいは大部分が(ニーダー=シュライデルン、エッペ)カトリックの市区もある。 三十年戦争では、コルバッハは、通過する軍勢に何度も高い軍費を支払わねばならなかった。戦争が終結した頃、家屋の半数に人が住むだけで、人口は戦前の 2600人から 1100人にまで減少した。1664年の大火でほぼすべての家屋が焼失した。1593年に建設された「イム・カットハーゲン」が、この大火の前に建てられて現存する唯一の木組み建造物である。これに対して、ゴシック様式の石造教会や石造の倉庫は良い保存状態が保たれている。
※この「中世と近世」の解説は、「コルバッハ」の解説の一部です。
「中世と近世」を含む「コルバッハ」の記事については、「コルバッハ」の概要を参照ください。
中世と近世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 09:25 UTC 版)
「ウィンチェスター (イングランド)」の記事における「中世と近世」の解説
1141年に起きたひどい大火で町の斜陽に拍車がかかった。しかし、ウィンチェスター司教ウィリアム・ワイカム(1320年 - 1404年)が市の修復において重要な役割を担った。彼は現在の大聖堂の構造全ての責任を負い、オックスフォード大学ニューカレッジと関係の深いパブリックスクールであるウィンチェスター・カレッジを1382年に創立した。中世の間、市は羊毛貿易の重要な中心地であったが、その後緩やかに勢いは衰えていった。
※この「中世と近世」の解説は、「ウィンチェスター (イングランド)」の解説の一部です。
「中世と近世」を含む「ウィンチェスター (イングランド)」の記事については、「ウィンチェスター (イングランド)」の概要を参照ください。
中世と近世(意義)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 02:20 UTC 版)
紀州征伐はその範囲は和泉・紀伊の二カ国にすぎないが、この一連の戦いでは中世と近世とを分けるいくつかの重要な争点が存在した。
※この「中世と近世(意義)」の解説は、「紀州征伐」の解説の一部です。
「中世と近世(意義)」を含む「紀州征伐」の記事については、「紀州征伐」の概要を参照ください。
- 中世と近世のページへのリンク