中世と近代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 10:21 UTC 版)
現在のボルツァーノ県域は、中世において神聖ローマ帝国のティロル伯領の一部であった。もともと、現在のイタリアとオーストリアにまたがる歴史的な「ティロル地方」は、ティローロ(ティロル)の伯爵が一帯を支配していたことに由来する。 伯位は、1363年にハプスブルク家のルドルフ4世の手に渡って以来、1918年までハプスブルク家の歴代当主に継承され、ティロル地方はドイツ語圏の一部として支配された。県域となる南ティロルはイタリア語圏との交錯地域であり、イタリア語を母語とする少数派住民もいた。 1805年、フランスとオーストリアとの間に結ばれたプレスブルクの和約によって、ティロル地方はオーストリアから、ナポレオンの同盟者であるバイエルン選帝侯(のちにバイエルン王)マクシミリアン1世に割譲された。マクシミリアン1世はさまざまな改革を推進したが、ティロルの人々の反発を招き、1809年4月9日にアンドレアス・ホーファー(英語版)を指導者とする反乱が発生した。オーストリアのバイエルンへの侵攻(第五次対仏大同盟)と連動したものであり、ホーファーらはバイエルン兵をティロルから駆逐するが、オーストリアはフランスに敗北、1809年10月14日、シェーンブルンの和約で再度ティロルのバイエルンへの割譲を認めさせられた。 1810年、バイエルン王マクシミリアン1世はナポレオンと領土交換に合意し、ティロル地方の南部はナポレオンのイタリア王国に割譲された。この時割譲された領土は現在のトレント自治県のおおむね全域およびボルツァーノ自治県の南部(ボルツァーノ周辺)で、ボルツァーノ自治県の北部は依然バイエルンの領域に残された。イタリア王国は割譲されたティロル南部に、トレントを県都とするアルト・アディジェ県 (Department of Alto Adige) を設置した。1814年のウィーン会議で、再びティロルはオーストリア帝国のもとで統合された。 1861年、イタリア統一運動によってイタリア王国が建国される。しかし、建国当初のイタリア王国は、イタリア語を母語とする「イタリア人」が暮らす領域すべてを統治範囲とはできなかった。オーストリア・ハンガリー帝国領内には依然として多くの「イタリア人」の住む領域が残され、これらの地域はさらなる「イタリア統一」を進めようとする立場から「未回収のイタリア」と呼ばれた。イタリア王国はこれらの地域を王国に統合することを目標とする。1866年の普墺戦争では賠償としてヴェネツィアを中心とするヴェネト州はオーストリアから割譲させることに成功した。 この「未回収地」には、南ティロル地方もその南に隣接するトレンティーノ地方と一体のものとして含まれていた。しかし、イタリアはフランスと敵対するようになると、ドイツやオーストリアとの友好関係を築かざるを得ず、1882年に両国と三国同盟を締結すると、未回収地問題は封印された。 第一次世界大戦においてイタリアは、当初は中立を宣言したが、1915年4月にロンドンにおいて協商国側との間でオーストリアからの「未回収地」の割譲を条件として参戦する旨の秘密協定(ロンドン条約)を締結し、5月24日に参戦した。1918年11月3日の休戦協定以降、イタリアは軍を南ティロルに駐留させ、1919年9月10日調印のサン=ジェルマン条約で正式にイタリア領となった。
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