中世における「不孝」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 08:35 UTC 版)
中世においては、律令法とも現代のものとも違い、父母(祖父母)側より子(孫)に対して関係を絶つ行為を指す。 公家法と武家法では条件が一部異なるが、教令違反・孝養の欠如あるいは不始末・向背(命令・指示違反)・不行跡・敵対行為などの非行行為の存在が挙げられ、具体的な証拠がなくても父母(祖父母)側の主張によって認められた。不孝と認定された子は家から放逐され、嫡子としての家督継承権や財産の相続権なども全て剥奪され、既に分与・継承された財産は没収されて父母(祖父母)のもとに戻された(悔返)。 なお、義絶もほぼ同一であるが、父母(祖父母)側は内外にその事実を公表して証拠となる義絶状を作成すること、子(孫)が犯罪を犯しても連座の対象にならないことに違いがあった。もっとも、南北朝時代には単なる不孝でも死後の紛糾を避けるために証拠文書などの作成が必要となり、不孝は義絶の別称となった。更に室町時代に入ると、本来は主従間の関係断絶行為であった勘当という行為が家族内にも適用されて不孝・義絶と同じ法的効果をもたらすようになり、不孝という言葉は使われなくなった。そのため、江戸時代以後は父母(祖父母)が子(孫)との関係を絶つことを「勘当」、それ以外の親族による縁戚関係断絶行為一般を「義絶」と称するようになった。
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