中世と都市の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/02 16:08 UTC 版)
リュクデは、フランク王国年代記 の784年の記事に初めて記録されている。カール大帝は、当時のザクセン公領で最初のクリスマス祭を開催した。その場所は、現在はヘルリングスブルクという名で知られている Skidrioburg に近いVilla Liuhidi であったという記述である。この集落はおそらく紀元後1世紀頃に成立し、現在の中核市区の北側、現在のリュクデとバート・ピルモント=ホルツハウゼンとの間にあたるオレンリューダーフェルトにあった。その後カール大帝の宿営地に教会が建設され、同じ場所に12世紀に現在のキリアン教会が建設された。 元々 Liuhidi またはLiuhith とも呼ばれていた地名の由来には様々な説がある。有力な説の一つが、多くの庶民が住み着いた場所を指したというものである。Liu は、低地ドイツ語では Lüe であり、Leute(庶民)を意味する。これはいわゆるポエタ・ザクソ(「ザクセンの詩人」、本名が知られておらずこう呼ばれている)の作品に Liudi という人物が登場することもこの説を支持している。別の有力な説では、784年の Liuhidi という最初の文献表記は、古高ドイツ語の luhhen = waschen(洗う)に由来すると考えている(cf. ラテン語: luere = 「洗う」)。すなわち、Liuhidi は「洗濯場または水浴地の集落」と解釈される。集落に古い時代に使われていた鉱泉があったことが、この説の信憑性を高めている。カール大帝が、たとえばアーヘン、パーダーボルン、ヴィースバーデンといった鉱泉がある場所を滞在地として好んだのは周知のことである。 2つの分農場を持つ荘園「Lugete」に関する文献記録は、1036年5月25日のブスドルフ文書に遺されている。これはパーダーボルン司教マインヴェルク(ドイツ語版、英語版)が新しく設立されたパーダーボルンのブスドルフ修道院にこの荘園からの十分の一税徴税権を寄贈したというものである。 1195年に設立されたピルモント伯ゴットシャルク1世の貨幣鋳造所を背景に、リュクデは早くもこの頃に都市権を得た。都市の設立を証明する根拠史料は何一つ現存していないが、遅くとも1246年までには都市権の授与がなされていた。この頃に、現在も遺る都市のグランドデザインがなされ、市壁、壕、防衛等といった多くの部分が保存されている都市防衛施設が建設された。さらにリュクデには市場や印章の使用を認められた市議会が設けられた。 リュクデはピルモント伯の計画的な都市計画によって建設された。この街は中心となる本通りと、それと並行して延びる2本の脇通りの3本の道路によって構成される典型的なドライシュトラーセンシステム(3本の道路システム)である。これらは街の南で本通りから鋭角に分岐し、並行に街中を通り、北側で横向きの通りに接続した。 中世後期、リュクデはピルモント伯領の首都であり、同伯の居住地であった。市壁内の城の場所は、現在では不明である。リュクデは、何度も他国の領土的関心に弄ばれた。1255年にヴァルデック=ピルモント伯は、リュクデの半分をケルン大司教に割譲しなければならなかった。市の紋章にもこのことが示されている。
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