中世と近世初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 08:48 UTC 版)
1409年にシュレースヴィヒ公国の主導権をめぐって、ホルシュタイン公国とデンマーク王国の抗争が始まった。その結果、1411年コルディング条約にてデンマーク女王マルグレーテ1世がシュレースヴィヒ公国の領土の大部分を得た。そして同年マルグレーテ1世によってフレンスブルクのマリエンベルク地区にドゥボー城(ドゥブルク城)が建てられている。その翌年の1412年10月28日には、マルグレーテ1世が流行中のペストによってフレンスブルクに入港中の船上で没している。 ペストや他の伝染病は中世の都市にとって大きな問題であった。天然痘や赤痢、その他の伝染性流行病はフレンスブルクにおいても多くの住民の命を奪ったものであった。また、当時のハンセン病患者は1290年に建立された「聖ユルゲン病院」に隔離され、その病棟はフレンスブルクの街門前に建てられていた。(現在:「聖ユルゲン教会」、独:St.Jürgen Kirche)さらに、1500年ごろには梅毒も流行り、当時の治療活動の中心でもあったキリスト教の「聖霊病院」は、現在「聖霊教会」(独:Heiliggeistkirche)としてフレンスブルクの中心街にある。 道路設備がされていない当時のフレンスブルクの人々の生活は厳しいものであった。主要な道路でも整備されておらず、街灯もなかった。道の所々では家畜の厩肥が漏れ溢れるような状態で、それがために、住民にはそのような場所では木製のダムを設けて厩肥などが道路に漏れでないようにして、人々の通行に支障を与えないようにすることが義務付けられた。一般の家庭の暮らし向きは、家屋や中庭で家畜を飼い、牧夫に日夜牛や豚の番をさせたりなどした。その頃の家屋で窓があるのは中世貴族が住む家くらいのもので、ほとんどが窓のない家屋が多かった。 1485年、フレンスブルクは大火災に見舞われる。また、この頃は高潮なども絶えず襲ってきた。1602年に建てられた船舶商会館では、今日でも高潮を予想するための水位検針が行われている。 1526年からルーテル教会の教えが交易路を伝って入ってくる。当時、フーズムの宗教改革者ヘルマン・タストがフレンスブルクで教えている。また、当時はまだ若い公爵だったクリスチャン公(後のデンマーク王クリスチャン3世)の奨励で、過去にドミニコ会修道士でもあったゲルト・シュレヴェルトが改革を進めた結果、デンマーク領であるにもかかわらず、フレンスブルクは次第にドイツの文化や言語の影響を強く受けていった。 16世紀のハンザ同盟衰退後、フレンスブルクは北欧諸国の中でも交易都市として、とりわけ重要な位置を占めた。その交易範囲は地中海からグリーンランド、そしてカリブ海に及ぶ広範なものであった。その頃の主な交易財としてはニシンを始め砂糖、グリーンランド航海の捕鯨で得られる鯨油などが挙げられる。 30年戦争の最盛期が終わる1627年から1628年にかけてのヴァレンシュタイン皇帝による侵攻、また、1643~1645年、1657~1660年におけるデンマークとスウェーデンとの戦争でフレンスブルクは大打撃を受けた。
※この「中世と近世初期」の解説は、「フレンスブルク」の解説の一部です。
「中世と近世初期」を含む「フレンスブルク」の記事については、「フレンスブルク」の概要を参照ください。
- 中世と近世初期のページへのリンク