中世と現代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 23:43 UTC 版)
歴史家は19世紀から20世紀初頭、ゲルマン化という概念を主にスラヴ人が先住民であった地域へのドイツ東方植民に対して使用した。その地域にはメクレンブルク、ブランデンブルク、ポンメルン、ザクセン、シュレージエン、西プロイセン、東プロイセン、大ポーランド(ドイツ語版)、またハンガリーのマジャル人、ルーマニア人地域があった。ゲルマン化は一部で、キリスト教化(ドイツ語版)に先行、または並行することがあった。しかし、ゲルマン化は一方的なものではなかった。中世盛期、ゲルマニア・スラヴィカ(ドイツ語版)(「東方植民地」)での中世の地域開発は、スラヴ系住民を組み入れて行われためである。当時、新たに成立したのが環状村落(ドイツ語版)とアンガー型村落村(ドイツ語版)で、従来の定住地では見られなかった形式であった。しかしスラヴ人を組み入れることは、常に平和裏に行われたわけではない。例えばハインリヒ1世の対スラヴ人戦役、983年のスラヴ人蜂起、1066年のアボドリト人(ドイツ語版)蜂起が挙げられる。 ほとんどの場合、ドイツ語を話す移民は地元の諸侯から、定住者の少ない、または全くいない地に入植すべく招かれた。諸侯は帝国に忠誠を誓い、統治する領土をレーエンとして受領していた。当地の支配者にとっては、現住民を圧迫することに思いを致すことはなかった。それには臣下が増えれば、自身の権力も増すこともあった。多くの場合、定住地はドイツ人とスラヴ人の地区が隣り合っていた。スラヴ人の同化や言語のゲルマン化は、数世紀にわたって連綿と続き、裁判所によるソルブ語禁止がこれを支えた。ラウジッツでは、ソルブ人の一部は、ドイツ語圏での言語島といった状況にもかかわらず、完全にゲルマン化されずにすんだ。それでもなお低地ソルブ語は、現在、間違いなく非常に危機にさらされている言語と見なされている。
※この「中世と現代」の解説は、「ゲルマン化」の解説の一部です。
「中世と現代」を含む「ゲルマン化」の記事については、「ゲルマン化」の概要を参照ください。
- 中世と現代のページへのリンク