中世と市の創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 01:38 UTC 版)
デトモルトは、783年に Theotmalli として初めて記録された。アインハルトや他の記録者によれば、この古高ドイツ語・古ザクセン語の名称はディングの開催地(Theot は民族、民衆を意味し、mahal は裁判、裁判所を意味する)を表している。ザクセン戦争を戦っていたカール大帝はこの年、この付近でザクセン人に襲撃された。1005年からこの地は、古ザクセン語で Tietmelli ガウまたは Theotmalli ガウと呼ばれた。799年に聖別された祭壇石を1023年にパーダーボルンのアプディングホーフ修道院に譲渡したと伝えられている。パーダーボルンからレムゴーへの古い通商路のヴェレ川(ドイツ語版、英語版)の徒渉地に面し、洗礼堂や農家が点在するフランク時代からの入植地である Detmelle 村は、1263年にリッペの領主ベルンハルト3世によってリッペの都市権を与えられた。市の創設の過程で、Detmelle は 971 ha のささやかな土地と助祭を得た。現存する最も古い市の印章が押された文書は 1305年のもので、パーダーボルン市文書館にある。1265年の辺境特権はデトモルトのさらなる発展や年の市の創設に寄与した。1300年頃からマルティーニの日(11月11日)の前の日曜日に2つめの市が開かれるようになった。 中世の都市計画は、交差する通りと、それを囲む直径約 500 m のほぼ円形の環状路で構成されている。2つの主要な街道はこの集落を4つの地区に分割している。その北西部に位置する区画に領主の城が設けられた。1305年頃に全市が堀、土塁、壁で護られ、市壁の内側に細い通りがあった。その痕跡は市壁の遺構と同じように一部分が現在まで遺っている(ブルーフマウアー通り、アウグスト通り、アドルフ通り、カール通り)。南北軸は、北側にレムゴー門と南側にホルン門の2つの堅牢な市門を持つランゲ通りが構成している。東西軸は、現在のシューラー通りとブルーフ通りで構成されている。この通りの東側にはビュルガー門があったが、壁の反対側にはヴェレ川低地の沼沢地が広がっていた。西はブルーフ門がデトモルトの都市農民の家畜のための都市放牧地に向かって開いていた。 城は 14世紀に領主の代官によって利用されていた。この城に封ぜられたフォン・デム・ブーシェ家、フォン・デア・ボルフ家、フォン・エクステルデ家、シュヴァルツ家といった貴族家の宮廷活動や豪奢な生活は、市民たちの努力による算段の上に成り立っており、市民生活の自立的発展は他の都市と同程度であった。1450年頃にやっと 350人の人口となった本市は、17世紀になるまでリッペで最も小さな市であった。掠奪、破壊、火災によってその後の発展は控えめなものであった。特に1447年のゾーストのフェーデでは、デトモルトはケルン軍によって占領された。その後、本市の防衛施設は拡充され、1468年にリッペ伯ベルンハルト7世がデトモルトを恒常的な居住地に選んだ。1590年頃のデトモルトの人口は約 700人であった。 1547年、70戸以上の家屋を破壊する大火がこの街を襲った。豊かな破風装飾をもつヴェーザールネサンス様式の城館は 1557年に完成した。
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