中世と1802年までの近代前期
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「シュヴェービッシュ・ハル」の記事における「中世と1802年までの近代前期」の解説
古代の居住地域と中世のシュヴェービッシュ・ハルとの連続性は未だに証明されていない。ハルの存在を示す典拠となる最初期の文書はおそらく『エーリンゲンの寄付行為書』であろう。この文書は偽書で1037年の日付を持つが、実際には11世紀の末に創作された物である。防御に不向きな谷間に中世都市が成立した理由は製塩にあった。この街は最初コムブルク=ローテンブルク伯爵領であったが、1116年に伯爵家が断絶した後シュタウフェン家の勢力下に移った。都市への発展は、12世紀にいくつかの段階を経てなされた。1156年の聖ミヒャエル教会の聖別記録の中に初めてシュヴェービッシュ・ハルが明確に記載されている。ハルに貨幣の鋳造局を創設したのは、おそらくフリードリヒ1世(フリードリヒ・バルバロッサ)であろう。この鋳造所でヘラー硬貨(=ハラー・プフェニヒ)が製造された。大量に製造された薄い銀の少額硬貨はたちまち帝国中あるいは帝国の外へ流布していった。近現代のドイツ文化圏諸国で使用された補助通貨単位「ヘラー」はこれを語源とする。1204年に、シュヴェービッシュ・ハルは初めてシュタット(都市)となった。製塩と貨幣鋳造がこの街に経済的活力を与えた。ルドルフ・フォン・ハプスブルクは1280年にリンプルク献酌侍従家との間の市の統治に関する争いを終結させ、シュヴェービッシュ・ハルが帝国都市となることを可能にした。支配層は、シュタウフェン家の家令の出自を持つ都市貴族であった。内紛の後、非貴族の者が統治者の一部を占めるようになった。1340年の皇帝ルートヴィヒ・フォン・バイエルンの法令書は1802年まで小規模な修正を加えられながらも有効であり続けた。最も重要な機関は、市会(ラート)であり、そのトップとして市長(シュテットマイスターあるいはビュルガーマイスター)を置いた。市会は12人の貴族、6人の「中流市民」、8人の職人で構成された。こうした都市貴族の主導権は1509年から1512年の「第二次紛争」により破壊された。この後、市民階級や増加するアカデミックで知的な上層階級が主導権を握った。 14, 15, 16世紀には帝国都市シュヴェービッシュ・ハルは、組織的にその版図を拡大していった。いつでも機会があれば支配権を買い上げ、必要とあれば武力で防衛も行った。最後の大きな収穫は1595年にフェルベルクの統治権を買い上げたことであった。 1522年以降この地で働いていた神学者ヨハネス・ブレンツは1523年に宗教改革に移行し始め、1543年の教会法令集で移行を完了した。この帝国都市は、1525年のドイツ農民戦争の際に、蜂起した農民に対して守り抜いた、数少ない自治組織地域の一つであった。シュマルカルデン戦争で、この街はプロテスタント側についたことで、皇帝カール5世に多額の補償金を支払わなければならなかった。三十年戦争では、皇帝軍、フランス軍、スウェーデン軍と入れ替わり訪れる占領軍に耐えた。1634年と1638年の間、住民の5人に1人が伝染病や飢餓の犠牲者となった。それにもかかわらず、戦争終結後には、素早い復興を見せた。 火災がこの街をたびたび襲った。1316年には街の大部分が焼失し、1680年には落雷が原因の火災でゲルビンガー郊外の建物約100棟が失われた。1728年の大火では、旧市街の2/3が焼失した。294軒の民家とともに、2つの教会、病院、市庁舎や製塩所も焼け落ちた。この時の復興で、街は現在見るようなバロック様式の景観となったのである。帝政期の終わり頃には、自由帝国都市シュヴェービッシュ・ハルの統治する地域は330km²、人口21,000人であった。これは、3つの都市、21の教区、90の村や集落を包含していた。この地域は、コッヒェンエック、ローゼンガルテン、ビューラー、シュリヒト、イルスホーフェン、フェルベルク、ホンハルトといった自治体に分割された。
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