中世から近代の使用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 06:50 UTC 版)
ローマ帝国の西側は崩壊によって独立国家に変じ、また東ローマ帝国は防勢に置かれた。中世のあいだ、攻城塔の使用は頂点に達した。『復活祭年代記』の以下の記述のように、626年、アヴァール人がコンスタンチノープルを包囲侵略したものの、不成功に終わった際にも攻城塔は用いられた。 "And in the section from the Polyandrion Gate as far as the Gate of St Romanus he prepared to station twelve lofty siege towers, which were advanced almost as far as the outworks, and he covered them with hides."(また、ポリアンドリオン門から聖ロマヌスの門までの区域において、彼は12基のそびえ立つ攻城塔を持ち場に準備し、これらはほぼ外堡まで前進し、そして彼は獣皮でこれらを被覆した。) また、この包囲戦では攻撃側が「sows」を投入することとなった。これは移動可能な装甲化されたシェルターで、中世を通じて使用され、作業者は防衛側の攻撃から守られつつ堀を埋めることができた。これにより、防壁まで移動する攻城塔のための整地が行われた。しかしながら防壁の基部にタルスと呼ばれるスロープを建築することで、ある程度この戦術の効果を減らすことができた。これは十字軍の要塞では一般的な防御だった。 中世の攻城塔はまた、より精巧なものになっていった。1266年のケニルワース城包囲戦において、一例では200名の弓兵および11基のカタパルトが1基の塔で運用された。それでも包囲戦はほぼ1年ほど続き、イギリスの歴史における最長の包囲戦になった。これらの塔は決して破壊できないものではなく、1453年、コンスタンチノープルの陥落の際には、オスマン帝国軍の攻城塔が防衛側のギリシア火薬を浴びた。 攻城塔は大型の火砲の開発によって脆弱で時代遅れなものに変じた。これらの塔は高い壁を越えて兵員を送り込み、攻撃するためだけに存在していた。大型の火砲はまた、高い防壁をも時代遅れな物とし、要塞は新しい変化を遂げた。しかし、後に建造された「砲列塔」は火薬の時代においても類似の任務を帯びた。攻城塔に似たこうした塔は、包囲戦用の砲を据えるため、現地で木によって作られた。こうしたものの一つはロシアの工兵技術者イワン・ヴィロドコフによって作られ、ロシア・カザン戦争の一局面である1552年のカザン包囲戦に投入された。この塔は10門の大口径砲と50門の軽砲を搭載した。この塔はGulyay-gorodを発展させたものという可能性がある。これは移動可能な防御物で、壁ほどの大きさのシールドに火砲用の穴を開けた物が、プレハブ方式を用いて台車やソリの上に組み立てられていた。砲列塔は後にウクライナのコサックによってしばしば使われた。
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