中世から近世以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 14:32 UTC 版)
着袴の儀式は、遅くとも鎌倉時代初期には武家にも広まっており、『吾妻鏡』には、1206年7月30日(建永元年6月16日)に公暁の着袴之儀を行ったことが記録されている。武家においても、やはり着袴親は父親か親族の中で人望のある者が務めた。家臣は祝いとして馬や太刀を献上した。 江戸時代になると、庶民の間にも衣類を新調して産土神を参拝する行事として着袴が広まった。参拝後は親戚宅を訪問したり、自宅に親類や知人を招いて祝宴を開いた。徳川将軍家では、着袴の式後は紅葉山の廟所(東照宮)を参詣し、その後、祝いの三献の儀を行うこととなっていた。 もともとは式を行う年齢は決まっていなかったが、江戸時代になるころには、5歳または7歳に固定されるようになっていった。また、期日も定まっておらず、その都度吉日を選ぶものであったが、『西鶴織留』には「五歳の春、着初めの袴をわが手にかけて皺伸ばして」とあり、江戸時代初期には正月の行事となっていた。しかし、延宝のころから次第に11月15日に行う風習となり、『東都歳事記』では、髪置・帯解・宮参りなどとともに11月15日の行事とされている。11月15日に集められたのは、この日が万事に吉である鬼宿日であたるため、あるいは、徳川綱吉の子の徳松の祝いをこの日に行ったためとされる。それでも公家や将軍家では、やはり正月の吉日を選んで行われることが多かった。 近代になると、11月15日の行事となった髪置・着袴・帯解などは一まとめにされ、七五三となった。
※この「中世から近世以降」の解説は、「着袴」の解説の一部です。
「中世から近世以降」を含む「着袴」の記事については、「着袴」の概要を参照ください。
- 中世から近世以降のページへのリンク