中世から近世まで(平安時代から江戸時代最初期まで)
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平安時代には中国(唐)との交通が絶えて国風文化が隆盛し、武士の出現と騎射戦の発展ともに、日本独自の大鎧(当時は単に「鎧」または「着長」と言った)が出現した。従来の挂甲は儀礼的なものとしてだけ残り、綿襖甲は完全に廃れた。騎射戦が戦術の中心であった鎌倉時代までは騎乗の上級武者は大鎧を着用した。これに対して下級の徒歩武者が装着したのが胴丸である。平安時代末期の源平時代に日本の甲冑は最高度に発達し荘重優美を極めたが遺品は多くない。 鎌倉時代に入ると下級兵卒用に最も簡易な腹当が登場した。鎌倉時代中期の文永・弘安の役の後、戦闘方式が騎射戦中心から白兵戦に移り始めた。これにより騎馬武者も接近して切り合ったりするなど徒歩武者へのより積極的な対応が求められるようになり、大鎧の形状が腰で支えて着用する動きやすい形状に変化していった。鎌倉時代後期には重く機動性に劣る大鎧は敬遠され始めて武士の象徴的な存在となり、騎乗の上級武士が着用する甲冑は胴丸に兜と袖を加えたものが主流になった。また腹当が進化して防御範囲が拡大した腹巻が登場した。 南北朝時代から室町時代後期には胴丸と腹巻が主流であった。室町時代末期の戦国時代には、戦闘の大規模化や鉄砲伝来や槍の流行等による軍事環境の著しい変化に伴って、平安時代の大鎧と胴丸の誕生に続く甲冑の変革期を迎えた。こうして誕生したのが当世具足である。当世具足では従来の胴丸や腹巻で使われていた個々の鱗状の板(小札)が鉄や革を使用した横一列の板札や全面的な一枚板へと変化し、甲冑の耐久性と生産性の向上が図られている。そのかわり柔軟性が失われたため着脱しやすいように胴部分を蝶番で開閉させて装着できるようになった。また西洋のプレートアーマーを参考にした南蛮胴も登場した。 武将は一人で多数の甲冑を所有することもあり、例えば徳川家康所用品は久能山東照宮、日光東照宮、紀州東照宮、徳川美術館、徳川ミュージアム、東京国立博物館などに数十品が確認されている。 戦場での防寒着として甲冑の上から陣羽織を羽織ることも流行し、有力な武将は様々な柄の陣羽織を使っていた。 伝・足利尊氏所用の白糸褄取威大鎧(兜・袖欠)および黒韋腰白威筋兜、室町時代・14世紀初頭(メトロポリタン美術館蔵) 黒韋肩妻取威胴丸、室町時代・15世紀(東京国立博物館所蔵、重要文化財) 松浦氏伝来の紅糸素懸威腹当(松浦史料博物館所蔵) 黒革肩白威腹巻(東京国立博物館所蔵) 仁王胴具足、安土桃山時代・16世紀(東京国立博物館蔵) 金小札紅糸威五枚胴具足、安土桃山 - 江戸時代・16-17世紀(東京国立博物館蔵) 肩脱二枚胴具足(伝加藤清正所用)、安土桃山 - 江戸時代・16 - 17世紀(東京国立博物館蔵) 南蛮胴具足(伝明智光春所用)、安土桃山時代 - 江戸時代・16 - 17世紀(東京国立博物館蔵) 朱漆塗矢筈札紺糸素懸威具足(伝豊臣秀次所用)、安土桃山時代、16 - 17世紀(サントリー美術館蔵) 色々糸威二枚胴具足(伝徳川家康所用)、安土桃山 - 江戸時代・17世紀、東京国立博物館蔵) 黒糸威二枚胴具足(榊原康政所用)、江戸時代・17世紀(東京国立博物館、重要文化財) 白糸威胴丸具足(松平家乗所用)、江戸時代・1614年以前(東京国立博物館蔵)胴丸仕立ての当世具足 江戸時代・1613年に徳川秀忠がジェームズ1世に贈ったもので胴丸仕立ての当世具足(ロンドン塔蔵) 黒糸威胴丸具足(伝黒田高政所用)、江戸時代・17世紀、東京国立博物館蔵) 熊毛植二枚胴具足、江戸時代・17世紀(東京国立博物館蔵)
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中世から近世まで
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機械式弓はその後も発展し、鋼製ばねを使用することで強力な威力を持つようになったクロスボウは、1139年の第2ラテラン公会議でキリスト教徒に対する使用禁止が定められるに至った。一方で、西暦400年頃から1400年頃にかけての中世ヨーロッパでは、ばねや機械に関する進歩はあまり知られていない。11世紀頃になると、鍛冶屋などの多くのギルドが誕生したが、ばね屋のギルドの記録は残っていない。しかしこれらの間もばねの利用は続いており、鍛冶、金細工、銀細工、鎧、錠前や時計などの製造者たちによって個別にばねが作られていたと推測される。 中世ギルドの中でも、時計産業は、ばねの利用と製作の発展に古くから重要な寄与してきた存在であった。本格的な機械式の時計は、1300年頃、ヨーロッパで最初に作られたといわれる。この時計は錘の落下を動力したもので、錘を落とすための高さが必要で、大型なものであった。しかし、渦巻ばねのぜんまいが発明され、これを時計の動力として用いることによって、携帯可能な大きさの時計が初めて実現した。ぜんまいの発明者は不明だが、14世紀中には存在していた。フィリッポ・ブルネレスキの伝記や肖像画に、ぜんまいを使った時計の記述が残っている。当時の携帯可能な時計の中でも、ドイツのニュルンベルクで作られたぜんまい式携帯時計は「ニュルンベルクの卵(英語版)」という名称でヨーロッパで人気を博した。ニュルンベルクの時計技師であったピーター・ヘンラインがぜんまいあるいはニュルンベルクの卵を発明したという説もあるが、現在では否定されている。 ルネサンス期には、イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチも、ばねを利用した機械や機械要素としてのばねのスケッチや説明を多くの手稿の中に書き残した。これらの内で実際に当時実現されたのものは少ないと考えられているが、これらの時代に先立つアイデアはダ・ヴィンチの才能の現れの一つとも評される。一例として、自動車の祖先ともいえる、弓形のばねを動力として自走する三輪車のスケッチをアトランティコ手稿の中に残している。この自走する三輪車は現代的な視点から推測すると実用に耐えないと考えられているが、一方でダ・ヴィンチの独創性としても評価される。 16世紀あるいは17世紀以降のヨーロッパでは、交通手段として本格的に馬車が活用されるようになる。この背景となった技術の一つとして、馬車の懸架装置用に鋼製のばねが使用されるようになった点がある。それまでの馬車の懸架装置は、座席を革製のひもで吊り下げるものであった。しかし、鋼製ばねによる懸架装置が利用されるようになったことで馬車の乗り心地は改善され、馬車は荷物運搬のみならず人の移動にも利用されるようになった。記録としては1669年、イギリスの海軍史家サミュエル・ピープスが、自分の馬車に鋼製のばねを実験的に使ったことを書き残している。この記述は、懸架装置に用いられた板ばねの記録の中で最古のものでもある。 1678年には、ばねにおいて非常に重要な物理法則である「フックの法則」がイギリスのロバート・フックから発表された。当時、ジョン・カトラーという人物が資金を提供して創設された「カトラー講義」の授業をフックは行っていた。この講義の内容のいくつかは出版されて、『復元力についての講義』(Lectures de Potentia Restitutiva, Or of Spring) という著作をフックは1678年に出版し、この中でフックの法則が論じられた。『復元力についての講義』出版の2年前に、フックは別の事柄に関する著書を出しており、この著書の終わり近くでフックの法則を意味するアナグラムを公表していた。そして、『復元力についての講義』の中で、フックはそのアナグラムの解答を発表した。フックは『復元力についての講義』の最初のページで以下のように述べている。 およそ2年前、ヘリオスコープに関する自著の最後に示した Vt tensio sic vis を意味する ceiiinosssttuu というアナグラムによって、私はこの理論を出版した。Vt tensio sic vis すなわち、あらゆるばねの力は、それによる伸びと同じ比例関係にある。つまり、1つの力がばねを1つの空間分だけ伸ばしたり、曲げたりするなら、2つの力は2つの空間分だけ曲げ、3つの力は3つの空間分だけ曲げ……、以下は同様に続いていく。 さて、この理論はとても簡潔であるから、試すのはとても簡単である。 — Robert Hooke、Lectures de Potentia Restitutiva, Or of Spring (1678) アナグラムの解答である Vt tensio sic vis はラテン語の文となっており、科学技術史学者の中島秀人はこれを「伸びは力のごとく」と訳している。今日では、フックの法則はばねの最も基本的な動きを表し、さらには、ばねに限らずに弾性を持つ物体全てが関連する重要な法則となっている。
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中世から近世まで
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戦国時代から江戸時代にかけては、木曽三川と富士川の間は、特に「海道」と呼ばれていた。主な用例として、「海道下り」、「海道一の大親分(清水次郎長)」などがある。 関東と畿内との間の「廊下地帯」として、鎌倉時代以降に権力者から重視された。かつて源義朝は京都での内部抗争の末に、伊豆国の蛭ヶ小島に流刑された。最期の地も知多半島で迎えている。後に、子の源頼朝が鎌倉幕府を開くと、富士川以東は鎌倉幕府の領土となった。 戦国時代になり戦国大名が濫立すると、東海道は、「桶狭間の戦い」や「長篠の戦い」「小牧・長久手の戦い」「関ヶ原の戦い」などの大規模合戦が繰り広げられ、権力争いの場となった。中でも、現在の愛知県に当たる尾張国と三河国の2地域からは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった「三英傑」の他、多くの藩祖となる大名を輩出した。また駿河国の駿府(静岡)は、今川義元と徳川家康の本拠地となった。 江戸時代になると、江戸(東京)と京都を結ぶ「東海道五十三次」が整備され、その往来は日本最大規模の大動脈となった。この東海道沿線の中には、駿府・掛川・濱松・吉田・岡崎・桑名など、宿場町や城下町から発達した都市も多い。
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