中世から近世までとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 中世から近世までの意味・解説 

中世から近世まで(平安時代から江戸時代最初期まで)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 06:32 UTC 版)

甲冑」の記事における「中世から近世まで(平安時代から江戸時代最初期まで)」の解説

平安時代には中国(唐)との交通絶えて国風文化隆盛し、武士の出現騎射戦の発展ともに、日本独自大鎧当時は単に「鎧」または「着長」と言った)が出現した従来挂甲儀礼的なものとしてだけ残り綿襖甲は完全に廃れた騎射戦が戦術中心であった鎌倉時代まで騎乗の上武者大鎧着用した。これに対して下級徒歩武者装着したのが胴丸である。平安時代末期源平時代日本甲冑は最高度に発達し荘重優美極めた遺品多くない鎌倉時代に入ると下級兵卒用に最も簡易な腹当登場した鎌倉時代中期文永・弘安の役の後、戦闘方式騎射戦中心から白兵戦移り始めた。これにより騎馬武者接近して切り合ったりするなど徒歩武者へのより積極的な対応が求められるようになり、大鎧形状が腰で支えて着用する動きやすい形状変化していった。鎌倉時代後期には重く機動性に劣る大鎧敬遠され始めて武士の象徴的な存在となり、騎乗の上武士着用する甲冑胴丸に兜と袖を加えたものが主流になった。また腹当進化して防御範囲拡大した腹巻登場した南北朝時代から室町時代後期には胴丸腹巻主流であった室町時代末期戦国時代には、戦闘大規模化鉄砲伝来流行等による軍事環境著し変化伴って平安時代大鎧胴丸誕生に続く甲冑変革期迎えた。こうして誕生したのが当世具足である。当世具足では従来胴丸腹巻使われていた個々鱗状の板(小札)がや革を使用した一列板札全面的な一枚板へと変化し甲冑耐久性生産性の向上図られている。そのかわり柔軟性失われたため着脱しやすいように胴部分を蝶番開閉させて装着できるようになった。また西洋プレートアーマー参考にした南蛮胴登場した武将一人多数甲冑所有することもあり、例え徳川家康所用品は久能山東照宮日光東照宮紀州東照宮徳川美術館徳川ミュージアム東京国立博物館などに数十品が確認されている。 戦場での防寒着として甲冑の上から陣羽織羽織ることも流行し有力な武将様々な柄の陣羽織使っていた。 伝・足利尊氏所用白糸褄取威大鎧(兜・袖欠)および黒韋腰白筋兜室町時代14世紀初頭メトロポリタン美術館) 黒韋肩妻取威胴丸室町時代15世紀東京国立博物館所蔵重要文化財松浦氏伝来紅糸素懸腹当松浦史料博物館所蔵黒革肩白腹巻東京国立博物館所蔵仁王具足安土桃山時代16世紀東京国立博物館) 金小札紅糸威五具足安土桃山 - 江戸時代16-17世紀東京国立博物館) 肩脱二枚具足(伝加藤清正所用)、安土桃山 - 江戸時代16 - 17世紀東京国立博物館南蛮胴具足(伝明智光春所用)、安土桃山時代 - 江戸時代16 - 17世紀東京国立博物館朱漆矢筈紺糸素懸具足(伝豊臣秀次所用)、安土桃山時代16 - 17世紀サントリー美術館) 色々糸威二枚具足(伝徳川家康所用)、安土桃山 - 江戸時代17世紀東京国立博物館黒糸威二枚胴具足榊原康政所用)、江戸時代17世紀東京国立博物館重要文化財白糸威胴丸具足松平家乗所用)、江戸時代1614年以前東京国立博物館胴丸仕立て当世具足 江戸時代1613年徳川秀忠ジェームズ1世贈ったもので胴丸仕立て当世具足ロンドン塔黒糸威胴丸具足(伝黒田高政所用)、江戸時代17世紀東京国立博物館) 熊毛植二枚具足江戸時代17世紀東京国立博物館

※この「中世から近世まで(平安時代から江戸時代最初期まで)」の解説は、「甲冑」の解説の一部です。
「中世から近世まで(平安時代から江戸時代最初期まで)」を含む「甲冑」の記事については、「甲冑」の概要を参照ください。


中世から近世まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 21:16 UTC 版)

「ばね」の記事における「中世から近世まで」の解説

機械式弓はその後発展し鋼製ばねを使用することで強力な威力を持つようになったクロスボウは、1139年第2ラテラン公会議キリスト教徒対す使用禁止定められる至った一方で西暦400年頃から1400年頃にかけての中世ヨーロッパでは、ばねや機械に関する進歩はあまり知られていない11世紀頃になると、鍛冶屋などの多くギルド誕生したが、ばね屋のギルド記録残っていない。しかしこれらの間もばねの利用続いており、鍛冶金細工、銀細工、鎧、錠前時計などの製造者たちによって個別にばねが作られていたと推測される中世ギルド中でも時計産業は、ばねの利用と製作の発展古くから重要な寄与してきた存在であった本格的な機械式時計は、1300年頃、ヨーロッパで最初に作られといわれる。この時計は錘の落下動力したもので、錘を落とすための高さが必要で、大型なものであった。しかし、渦巻ばねぜんまい発明され、これを時計動力として用いることによって、携帯可能な大きさ時計初め実現したぜんまい発明者不明だが、14世紀中には存在していた。フィリッポ・ブルネレスキ伝記肖像画に、ぜんまい使った時計記述残っている。当時携帯可能な時計中でもドイツニュルンベルク作られぜんまい携帯時計は「ニュルンベルクの卵(英語版)」という名称でヨーロッパで人気博したニュルンベルク時計技師であったピーター・ヘンラインぜんまいあるいはニュルンベルクの卵を発明したという説もあるが、現在では否定されている。 ルネサンス期には、イタリアレオナルド・ダ・ヴィンチも、ばねを利用した機械機械要素としてのばねのスケッチ説明多くの手稿の中に書き残した。これらの内で実際に当時実現されたのものは少ないと考えられているが、これらの時代先立つアイデアダ・ヴィンチ才能現れ一つとも評される一例として、自動車祖先ともいえる、弓形のばねを動力として自走する三輪車スケッチアトランティコ手稿中に残している。この自走する三輪車現代的な視点から推測する実用に耐えない考えられているが、一方でダ・ヴィンチ独創性としても評価される16世紀あるいは17世紀以降ヨーロッパでは、交通手段として本格的に馬車活用されるうになる。この背景となった技術一つとして馬車懸架装置用に鋼製のばねが使用されるようになった点がある。それまで馬車懸架装置は、座席を革製のひもで吊り下げるものであった。しかし、鋼製ばねによる懸架装置利用されるようになったことで馬車乗り心地改善され馬車荷物運搬のみならず人の移動にも利用されるようになった記録として1669年イギリス海軍史サミュエル・ピープスが、自分馬車鋼製のばねを実験的に使ったことを書き残している。この記述は、懸架装置用いられ板ばね記録の中で最古のものでもある。 1678年には、ばねにおいて非常に重要な物理法則である「フックの法則」がイギリスロバート・フックから発表された。当時、ジョン・カトラーという人物資金提供して創設された「カトラー講義」の授業フック行っていた。この講義内容いくつか出版されて、『復元力についての講義』(Lectures de Potentia Restitutiva, Or of Spring) という著作フック1678年出版しこの中でフックの法則論じられた。『復元力についての講義出版2年前にフック別の事柄に関する著書出しており、この著書終わり近くフックの法則意味するアナグラム公表していた。そして、『復元力についての講義』の中で、フックはそのアナグラム解答発表したフックは『復元力についての講義』の最初のページで以下のように述べている。 およそ2年前、ヘリオスコープに関する自著最後に示した Vt tensio sic vis意味する ceiiinosssttuu というアナグラムによって、私はこの理論出版したVt tensio sic vis すなわち、あらゆるばねの力は、それによる伸びと同じ比例関係にある。つまり、1つの力がばねを1つ空間分だけ伸ばしたり、曲げたりするなら、2つの力は2つ空間分だけ曲げ3つの力は3つの空間分だけ曲げ……、以下は同様に続いていく。 さて、この理論はとても簡潔であるから、試すのはとても簡単である。 — Robert Hooke、Lectures de Potentia Restitutiva, Or of Spring (1678) アナグラム解答である Vt tensio sic visラテン語の文となっており、科学技術史学者中島秀人はこれを「伸びは力のごとく」と訳している。今日では、フックの法則はばねの最も基本的な動き表しさらには、ばねに限らず弾性を持つ物体全て関連する重要な法則となっている。

※この「中世から近世まで」の解説は、「ばね」の解説の一部です。
「中世から近世まで」を含む「ばね」の記事については、「ばね」の概要を参照ください。


中世から近世まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 09:19 UTC 版)

東海地方」の記事における「中世から近世まで」の解説

戦国時代から江戸時代にかけては、木曽三川富士川の間は、特に「海道」と呼ばれていた。主な用例として、「海道下り」、「海道一の大親分清水次郎長)」などがある。 関東畿内との間の「廊下地帯」として、鎌倉時代以降権力者から重視された。かつて源義朝京都での内部抗争の末に、伊豆国蛭ヶ小島流刑された。最期の地知多半島迎えている。後に、子の源頼朝鎌倉幕府を開くと、富士川以東鎌倉幕府領土となった戦国時代になり戦国大名濫立すると、東海道は、「桶狭間の戦い」や「長篠の戦い」小牧・長久手の戦い」「関ヶ原の戦い」などの大規模合戦繰り広げられ権力争いの場となった中でも現在の愛知県に当たる尾張国三河国の2地域からは、織田信長豊臣秀吉徳川家康といった「三英傑」の他、多く藩祖となる大名輩出した。また駿河国駿府静岡)は、今川義元徳川家康本拠地となった江戸時代になると、江戸東京)と京都を結ぶ「東海道五十三次」が整備され、その往来日本最大規模大動脈となった。この東海道沿線中には駿府・掛川・濱松・吉田・岡崎・桑名など、宿場町城下町から発達した都市も多い。

※この「中世から近世まで」の解説は、「東海地方」の解説の一部です。
「中世から近世まで」を含む「東海地方」の記事については、「東海地方」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「中世から近世まで」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中世から近世まで」の関連用語

中世から近世までのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中世から近世までのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの甲冑 (改訂履歴)、ばね (改訂履歴)、東海地方 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS