人文史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 06:39 UTC 版)
養老山地の名称は、717年の養老改元に由来する。同年9月、元正天皇が美濃国へ行幸し、当耆郡多度山にて泉の水を飲んだところたちまち健康を回復したことから、同年11月、霊亀から養老へ改元した。天皇が飲んだ泉を特定することはできないが、山地東麓の滝がその泉に比定されるようになり、養老の滝と称せられた。その直上の峰は、もと多芸山と呼ばれていたが、いつ頃からか養老山と呼ばれるようになり、それが山地全体の名称にもなった。 山地南端の多度山は神体山として古来信仰を集め、多度大社および神宮寺が営まれた。 養老山地東麓は、観光地として開発され、1880年(明治13年)に養老公園が開園したほか、1970年(昭和45年)には揖斐関ヶ原養老国定公園に指定されている。1995年(平成7年)、養老公園内にテーマパーク養老天命反転地が開園した。
※この「人文史」の解説は、「養老山地」の解説の一部です。
「人文史」を含む「養老山地」の記事については、「養老山地」の概要を参照ください。
人文史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 07:32 UTC 版)
江戸時代初期の正保2年(1645年)に作られた国絵図(『津軽郡之絵図』)には、夏泊半島の夏泊崎を「大間崎」と記し、その先に「大嶋」が描かれている。このあたりの海岸には大間村という小集落があり、製塩などによって生計を立てていたという。しかし時期は不明だが、この村は廃村となった。明治時代の地図には、大嶋は「大間島」と記されている。 享保4年(1719年)、大間喜兵衛という人物を中心にして、海上安全祈願のため大島の北端に弁財天を祭祀した。これは弁天宮として今も祀られている。 1950年代まで、島北部の草地ではウシやウマの放牧が行われていた。
※この「人文史」の解説は、「大島 (陸奥湾)」の解説の一部です。
「人文史」を含む「大島 (陸奥湾)」の記事については、「大島 (陸奥湾)」の概要を参照ください。
人文史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 00:20 UTC 版)
中国山地における人間活動の痕跡は、旧石器時代にさかのぼる。帝釈峡(広島県)の遺跡から、旧石器時代のものと考えられる遺物が出土している。その後の縄文時代についても、帝釈峡を中心に複数の遺跡が発見されている。 弥生時代の中国山地の遺跡からは、竪穴式住居跡、銅剣・銅鐸などの祭祀具、高地性集落跡などが発見されている。さらに、古墳時代になると、津山盆地や三次・庄原盆地に古墳が作られている。このことは、中国山地においても首長層が出現するだけの社会が形成されていたことを意味する。古墳時代ごろに大陸から製鉄技術が伝来したとされているが、花崗岩に含まれる磁鉄鉱を資源として、中国山地でも製鉄が始まっていたのではないかと考えられている。 当初、中国山地の製鉄は鉄鉱石を原料としていたが、平安時代ごろから砂鉄原料へ変わっていった。そして、砂鉄を使用した製鉄は、たたら製鉄という方法に発展し、中世から近世まで続いた。映画『もののけ姫』は中世の中国山地を舞台としており、たたら製鉄も物語の重要な要素として登場している。 中国山地におけるたたら製鉄は、川底の砂をかごでさらい、砂鉄のみを抽出していた。この川砂さらいは河口付近の砂浜形成の原因となったとも言われ、斐伊川の河口が出雲大社付近から宍道湖へ移動したこと、日野川河口付近から弓ヶ浜が伸びていることなどの原因の一つに、製鉄のための川砂さらいがあったとする見解もある。また製鉄に必要な薪炭の供給のため多くの木々が伐採され、比婆山周辺を中心に「毛無山」という山名が複数見られる。 平安時代に始まった山岳仏教は、中国山地の特に山陰側で栄えた。投入堂で知られる三仏寺や大山山麓に建てられた大山寺などがその代表である。 鎌倉時代になると、中国山地の各所で荘園が開発され、関東武士たちが新補地頭として移住し、土着化した。その一例が、安芸の毛利氏であり、戦国時代には毛利元就が出て中国地方を統一した。江戸時代には、中国山地にも新田が開かれ、多くの水田が見られるようになった。それでも江戸期における中国山地の主産業は製鉄であり、次いで高原地形を活かした牛の牧畜だった。 太平洋戦争の終結後、日本では産業の著しい発展が見られたが、中国山地は平地に乏しく、交通も不便であり、近代的な産業の発展は見込めなかった。高度経済成長期ごろから、若年層を中心に山陽や京阪神、東京など都市部への人口流出が著しくなり、廃村となった箇所も多く、過疎化が中国山地の大きな問題とされた。併せて、高齢者人口の割合が高くなり、高齢化も問題として浮上してきた。20世紀末において、日本で最も過疎化・高齢化が進んでいた地域の一つである。21世紀に入るとグリーンツーリズムなどの方策で地域の活性化を図ろうとする動きも出てきているが、依然として過疎化・高齢化問題は深刻である。
※この「人文史」の解説は、「中国山地」の解説の一部です。
「人文史」を含む「中国山地」の記事については、「中国山地」の概要を参照ください。
- 人文史のページへのリンク