人文主義者としての名声
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「デジデリウス・エラスムス」の記事における「人文主義者としての名声」の解説
貧しかったエラスムスはパリへ出てラテン語の個人教授を始めた。これが縁となって1499年にイングランドへ渡り、同地の上流社会に多くの知己を得た。人文主義者ジョン・コレット (John Colet)、終生の友となった政治家トマス・モア、若きヘンリー王子(後のヘンリー8世)などと交わった。ジョン・コレットは当時オックスフォード大学で教鞭をとっており、エラスムスは彼の聖書研究の方法論(当時の主流であったスコラ学的アプローチでなく、サン・ヴィクトル学派の流れを汲んでいた)に影響されている。ジョン・コレットはエラスムスのギリシア語の知識不足を指摘し、さらに研鑽を積むよう促す。エラスムスは聖書研究に着手し、キリスト教的著作を発表するようになる。1500年に『古典名句集』、1504年には一般信徒向けの信心書である『エンキリディオン』 が出版されると、エラスムスの名声は高まっていった。 さらに同年、ルーヴァンでロレンツォ・ヴァッラの手による『新約聖書註解』の写本を見出したことは彼の人生の方向を決める出来事となった。 1506年には少年時代から憧れたイタリア行きを果たし、訪れたトリノ大学で神学博士号を授与された。その後イギリスに向かうためアルプスを越えたが、その道中で『痴愚神礼賛』の構想を得たという。これは古典をモチーフにしながら、エラスムスの風刺とユーモアの精神が遺憾なく発揮された作品となった。 1514年イギリスを離れてスイスのバーゼルに到着したエラスムスは書店店主ヨハン・フローベン (Johan Froben) と知り合う。フローベンとエラスムスは意気投合し、以後のエラスムスの著作はフローベンの書店から出版されることになる。1516年に出版された『校訂版 新約聖書』(Novum Instrumentum) と9巻からなる『ヒエロニムス著作集』は学識者の間で高く評価され、人文主義者としてのエラスムスの評価を決定付けることになった。 『校訂版 新約聖書』の出版ではギリシア語テキストの出版の重要性および革新性が強調されることが多い。すなわち、「人文主義者エラスムスの手によって、西欧で初めて学術的に校訂されたギリシア語新約聖書が世に出た」というような言い方である。このような表現は、古典研究者であったエラスムスが当時のカトリック教会言語、学術言語であるラテン語を軽視し、新約聖書のオリジナル言語であるギリシア語を重視してその出版に力を注いだというような印象を与える。 だが、実際のエラスムスはこの聖書の出版においては、むしろ優れたラテン語新約聖書を世に出そうとラテン語版の校訂に力点を置いていた。実際、エラスムスの出版したギリシア語テキストは正文批判のレベルからすれば稚拙なものであった。その理由はエラスムスが手にいれたギリシア語新約聖書がフィレンツェ公会議(バーゼル公会議)に参加した東ローマ帝国の聖職者によって西欧にもたらされたもの(ビザンチン写本)であり、テキストとしてはせいぜい12世紀にさかのぼるのがやっとのものであった(ヴルガータと呼ばれた当時のラテン語定本は古代のギリシア語版から翻訳されており、その痕跡を随所に残していた)。さらにエラスムスは『ヨハネの黙示録』の完全なギリシア語版を入手できなかったため、その一部を手元のラテン語版を見て自分でギリシア語に翻訳した。つまりエラスムスにとって『校訂版 新約聖書』に添付したギリシア語テキストの重要性はその程度のものだったのである。これに反して彼はラテン語テキストの校訂および新約聖書の注釈書の執筆には相当に力を入れている。 エラスムスの思いと裏腹に、自信を持ってまとめたラテン語テキストより稚拙なギリシア語テキストのほうが広く受け入れられ、1521年にルターがドイツ語訳聖書を著したときに、1519年の第二版を底本として用いたこともよく知られている。 このころのエラスムスが学者として高い評価を受けていたことは、1516年にブルゴーニュ公シャルル(後のカール5世)の名誉参議官に任命されていることからもうかがえる。また、当時のスペインの摂政ヒメネス・デ・シスネロスは自ら進めていた多言語対訳聖書(『王の聖書』、Complutensian Polyglot)の校訂のアドバイザーとしてエラスムスを招聘している。若き貴公子シャルルのためにエラスムスは『キリスト教君主教育』(Institutio pricipis Christiani) を著している。以後もアントウェルペン、バーゼル、ルーヴァンなどをまわりながら研究・執筆活動を続けた。
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