人文主義者としての活動
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「フランソワ・ラブレー」の記事における「人文主義者としての活動」の解説
1532年に民間伝承中の巨人ガルガンチュワを題材にした、作者不明の短い物語『ガルガンチュワ大年代記』が出版され、評判となった。ラブレーはこれの続編の形式で、当時は未発達であったフランス語を用い、やはり中世民間伝説で小悪魔的存在と知られていたパンタグリュエルをガルガンチュワの息子として設定した『パンタグリュエル物語』を、アルコフリバス・ナジェ(Alcofrybas Nasier)のペンネーム(本名のアナグラム)で刊行。続いて当時の占星術のパロディである小冊子『1533年用のパンタグリュエル占い』を発行する。 1534年にフランソワ1世の重臣ジャン・デュ・ベレーの知遇を得て、侍医としてローマに同行するなどしていた。またパンタグリュエルの父親について上書きする『ガルガンチュワ物語』を執筆する。しかし1534年の檄文事件により身の危険を感じて一時期姿をくらますが、1535年にはイタリアに旅行して、還俗して医学の道に進んだことの赦免をローマ教皇パウルス3世に願い出て認められ、1536年にはパリ郊外サン=モール=デ=フォセのベネディクト会修道院に属する。 1537年にはモンペリエ大学で医学博士号を取得。1538年にはフランソワ1世とカール5世によるエーグ=モルト会談に立ち会うなど、政治世界にも関わり続ける。また作品中で激しく批判したソルボンヌや教会の圧力による出版禁止を避けるために、『ガルガンチュワ』『パンタグリュエル』の表現を和らげた改訂版を1542年に出すが、両書は翌1543年の禁書目録に掲載されてしまう。1546年には続編の『第三の書』を本名で執筆し、国王の「特認」という出版独占権をお墨付きに得て出版するが、禁書目録の増補版に入れられる。このためロレーヌ地方のメスに逃れて、市の医師として勤務するが、ジャン・デュ・ベレーに懇願して政界に復帰。 1548年にローマ駐在全権大使として出発したデュ・ベレーに同行し、その途中に立ち寄ったと見られるリヨンの出版社から『第四の書』の未完成原稿(「不完全版」)が出版されてしまう。その後オデ・ド・シャチヨン枢機卿の知遇を得て、1550年にその尽力により、今度は自著の出版を10年間許可するという国王アンリ2世の「特認」を得る。そして1552年に改めて『第四の書』完全版をパリで出版。この「特認」は当時のフランス国教会とローマ教皇庁の対立において、ラブレーがフランス王権側であると認められたためともされ、『第四の書』の「前口上」でもアンリ2世を褒め讃え、作品中のローマ教会批判も激烈なものとなっている。1551年にはムードンのサン=マルタンの司祭職を与えられたが、他者に貸与して職には就かなかった。1553年に死去。パリのサン=ポール教会に埋葬されたとされるが、墓地も現存していない。 死後の1564年に未発表原稿の『第五の書』が出版されるが、本当にラブレーの作品かどうかは議論がある。さらに1562年にも『未発表、鐘鳴島、フランソワ・ラブレー先生作』という本が出版されているが偽書とみられている。 デジデリウス・エラスムス宛の書簡で「あなたの学識ある乳房で育った」と書くなど、深い敬愛を抱いており、作品にも『痴愚神礼讃』など多くの引用を取り入れている。スコラ哲学や修道士への批判は当時の宗教改革勢力と共鳴するが、後にジャン・カルヴァンはリベルタン(放蕩者libertins)として批判した。
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