中世から近世初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 07:59 UTC 版)
バイロイトは、1194年に "Baierrute" としてバンベルク司教オットー2世の文書中で初めて言及されている。語尾の "-rute" は "Rodung"(開墾地)を、"Baier-" はバイエルン地方からの移民を示していると推測されている。より早くから文献に言及されている集落も、現在のバイロイト市に含まれている。ゾイルビッツ地区(1035年の神聖ローマ皇帝コンラート2世の文書中、ザーリアー朝(ザリエル家)の王領 "Silewize" として言及)やザンクト・ヨハンニス地区(1149年に "Altentrebgast" として言及)がそれである。 バイロイトは初め(1199年)"villa"(村)と呼ばれていたが、1231年の文献で初めて "civitas"(都市)と記されている。これにより、1200年から1230年までの間にバイロイトは都市権を授かったと解釈されている。1248年までの領主はアンデクス=メラン伯であった。この一門の断絶後、1260年にホーエンツォレルン家(ツォレルン家)一門のニュルンベルク城伯がこの所領を継いだ。クルムバッハのプラッセンブルク城が首都であり、国の中心であった。バイロイトの発展はゆっくりとしたもので、しかもたびたび大災害に襲われたのだった。しかし、1361年には皇帝カール4世がフリードリヒ5世城伯に対してバイロイトとクルムバッハに貨幣鋳造権を与えている。1421年には、バイロイトが初めて地図に記載された。 1430年2月にフス派がバイロイトを手ひどく荒らし回り、市庁舎と教会は焼け落ちた。1440年から1457年、ヨハン錬金術伯の治世下、ホーエンツォレルン城が建設された。この城は何度も改築・増築が繰り返され、現在の旧宮殿の原型となった。宗教改革が始まった10年後の1528年には、フランケンの辺境伯領の領主達はルター派の信仰を受け容れていた。 1605年の大火災では251軒の家屋のうち137軒が焼失した。1620年にはペストが流行し、1621年に再び大火災にみまわれた。三十年戦争でもこの都市は深刻な打撃を被った。 この都市の歴史の転換点となったのは、1603年にブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルクの息子であるブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯クリスティアンによって、プラッセンブルクからバイロイトに遷都されたことである(領土もブランデンブルク=バイロイト辺境伯領と改名)。1655年、孫のクリスティアン・エルンスト(彼の名はギムナジウム・クリスティアン=エルネスティウムとして後世に伝えられている)は1683年にオスマン帝国に包囲されたウィーンの解放軍に加わった(第二次ウィーン包囲)。現在、新宮殿に建てられているマルクグラーフェンブルンネン(辺境伯の泉)は、オスマン軍に勝利したこの業績を記念して造られたものである。この時代、環状道路の外側に市壁が設けられ、宮殿付属教会が建設された。
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