中世における実態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 06:22 UTC 版)
当初、国王候補者は部族大公の有力者から選ばれていた。部族大公領の崩壊後は、中小諸侯や国外の君主も候補者となった。候補者の条件は成人男性であること、カトリックであること、聖職者でないことのみだった。王は何人かの帝国等族によって選ばれ、その中には司教のような聖界諸侯も含まれていた。1147年以降、選挙は帝国都市フランクフルト・アム・マインで行われることが多かった。 元来は全貴族による満場一致によって選出されていたが、後に実際の選挙権は高位の貴族と司教に限られた。皇帝カール4世が定めた1356年の金印勅書によって、ローマ王は7人の選帝侯による過半数の投票によって選出されるものと定められた。選帝侯の顔ぶれは1338年のレンス宣言によって既に決まっており、マインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、ボヘミア王、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯であった。カール4世はローマ王位の法的地位を強化して、教皇の承認を必要としないようにしたが、結果的にカール4世の後でローマでの皇帝戴冠を受けたのはジギスムントとフリードリヒ3世のみだった。教皇の手によって帝冠を受けた最後の皇帝は、1530年にボローニャで戴冠式を行ったカール5世となる。一方で、ローマ王の選出方法を定めた金印勅書は、1806年の帝国解散まで効力を持ち続けた。 選出された新しい王は、カール大帝の玉座があるアーヘン大聖堂にてケルン大司教の手によりローマ王(Romanorum Rex)としての戴冠式を行った。戴冠式は選挙結果を確認するための行事でしかないものの、厳粛な儀式だった。936年に行われたオットー1世の戴冠式における詳細は、中世の歴史家であるコルヴァイのヴィドゥキントが著した Res gestae saxonicae に記されている。国王が帝冠が受け取る儀式は、少なくとも1024年に戴冠したコンラート2世の頃には確立した。アーヘン大聖堂以外では1198年にホーエンシュタウフェン朝の国王候補者フィリップがマインツ大聖堂でローマ王として戴冠しているが(数世紀後のローマ王ループレヒトも同地で挙行)、ヴェルフ家の対立王オットー4世に対して優勢になると、やはりアーヘンで戴冠式をやり直している。 即位したローマ王は、可能であればアルプスを越えパヴィア(のちにミラノ)でロンバルディアの鉄王冠によってイタリア王としても即位し、続けてローマに赴いて教皇の手によって皇帝として戴冠した。選出されたローマ王がすぐ戴冠のためローマに赴けることはまれだった。選出から皇帝戴冠までは大抵は数年を要し、戴冠への遠征に出る前にしばしば北イタリアの反乱や教皇本人との不和を解決せねばならなかった。全てのローマ王が皇帝戴冠までの手順を踏むことはできず、ローマへの遠征を完了できないローマ王も何人かいた。このような場合、君主としての称号は治世を通してローマ王のままとなった。とはいえ、ローマ王の称号は帝国君主としての権威を十分に示すものであり、教皇の権威を傷つけることなく事実上の皇帝としての地位を示すものだった。
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